第六章 砂の果ての再会
―再会〜変われぬ者〜―
今日がタイムリミットだ。
儀式は明日。だから逃げ出すなら今日しかない。幸いお母様をはじめ、イシスの王城全体が異国からのゲストの対応に追われている。
抜け出した後のことなど考えていない。そもそも自分一人で城の外に出たことすら無い。
それでも、逃げなければ。思い出しただけで体が震える。あんな儀式、二度とやりたくない。逃げるんだ、どこでもいい、どこか遠い場所へ。
寝室の窓枠に手を掛け、そっと押し開けた。視界が開け城下の町並みが遠く姿を現す。乾いた風が吹き込み、肩まで伸びる黒髪を揺らした。
大丈夫、準備は万端。
一度深呼吸。意を決して窓枠に足を掛けようとした時、
「よっ」
軽い声と共に、上空から足が落ちてきた。
「!!」
驚きに足がもつれ、しりもちをつく。
落ちてきた足は――いや、上から降りてきた人間は、器用に窓から小さな体を滑り込ませると、床にへたりこんでふうと息をつく。
見覚えがあった。つい昨日挨拶を交わしたばかりだ。ここに居るはずの無いその少年は、金髪をさっとかき上げ、幼くも整った顔立ちに、生意気そうな笑みを浮かべた。
――あれから十数年。
あの時と同じ窓枠に男が、少年から成長した体を預けている。すらりとした体躯。ひとくくりにした長い黄金の髪を手元でもてあそびながら、ひょうひょうとして、豪奢な椅子にでも腰掛けるよう優雅に足を組む。
イシス女王ネフィレムは、こぼれそうになる笑みを抑えながら、冷たく言い放った。
「こんな夜更けに寝室に忍び込むとは、色狂いは相変わらずだな。エジンベア第二王位継承者、エクシード・ルーグ・エジンベア」
敬称を付けての嫌味に、エクシード――イクスは苦く笑った。
×××××
下弦の月が妖しく光る夜。古い記憶を辿りながらようやく目的地に着いたと思えば、待ち構えていたように浴びせられる嫌味に苦笑してしまう。
ピラミッドから戻って、オーブが既に盗まれていたことを報告。周囲の動揺をよそに、女王は別段落胆することもなく、一行の労をねぎらって王城での滞在・休養を許してくれた。
そしてその夜。疲労で熟睡する仲間達を横目にまったく眠れる気のしないイクスは、半ば衝動的にここ――女王の寝室に忍び込んでいた。
「お久しぶりです姫様。今は女王様とお呼びした方がよろしいですか? それとも」
イクスは前髪をかき上げ、角度三十八度、多くの女性を篭絡してきた最強の流し目を送った。
「ネフィーと呼んでいいかい、昔のように」
「こそ泥無勢が対等のつもりか? 相手をして欲しければ、猿以下の自制心を矯正してから来い」
「ぐは。仮にも友好国の王子相手にそこまで言いますか」
「肩書きを語るなら相応の振る舞いをするんだな」
なんとも手厳しい。初めて会った時は初々しかったあの少女が。年月というのは残酷なものだ。
もっとも時間は少女を女にも変えた。
広い豪奢な寝室に灯るランプの淡い光が、薄い夜衣が包む曲線美を艶めかしく照らす。純白のリリーから妖艶なリコリスへ。各国の美女を見てきたイクスが思わず見惚れてしまう美しさだった。
「それで、一体なんの用だ。旧交を温めになどという生ぬるい理由なら、この場で手打ちにするが」
「僕たちの愛を確かめに参りました」
「辞世の言葉として受け取ろう」
「冗談! じょーだんですって」
優雅な動作で抜かれた剣がのど元に突きつけられ、イクスは両手を上げた。どうしてこう、自分の周りには冗談の通じない人間が多いのだろう。
「久しぶりの再会、嬉しく思います。この部屋で尻もちをついてた淑女が、こんなにも美し――」
ヒュンッ、風切り音を残して振り払われた剣先が、のけぞって倒れたイクスの首筋に赤い線を引いた。冷や汗がたれる。あと一歩遅ければ首がなくなるところだった。
涼しい顔で納刀する女王を畏怖と共に見上げる。
「変わったな、ネフィー」
「貴様は成長しないな、エクシード」
切り裂くような眼差しは、あの時の、少女の頃のあどけなさを微塵も感じさせなかった。
×××××
「なるほど、ここが寝室ね。ども、謁見の時に名乗ったけど、覚えてるよな? 俺はエクシード。確かネフィレムだったよね。ネフィーって呼んでいい?」
金髪の少年は、町娘にでも話しかけるような気安さで笑った。予想だにしない登場に、ネフィレムは呆然とする頭を振った。
突然窓からすべりこんできた目の前の少年。イシスとの貿易国であるエジンベア国の第二王子だ。昨日からの表敬訪問で、エジンベア王と共にやってきたゲスト。それがなぜ、こんなところに?
そうだ。まだ昼間とはいえ、他国の王女の寝室に忍び込むなど無礼の極み。たとえまだ十を過ぎたばかりの少年といえど、許されることではない。
「な、なんのつもりですか! ここをどこだと思って……」
「とりあえず、起き上がったら?」
言われて、しりもちをついたままだったのを思い出し、かあっと血が上った。差し伸べられた手をはたいて、居住まいを正す。
「我が名はネフィレム・フロズキア・ド・イシス。イシス国の第一王女である。エジンベアの王子よ、何ゆえ我が寝室へ忍び込んだ。返答次第では以後の国交に関わると心得よ」
怜悧な刃のように身を引き絞り、王女としての自分を呼び覚ます。少年を刺すようににらみつけ、護身用の剣に手を掛けた。
問われた少年は、こちらの緊迫をまったく意に介しないように、実にあっけらかんと言った。
「探検」
「……は、えっ、なんですって」
「た・ん・け・ん。一度、よそのお城の中を探検したいと思ってたんだよね。そしたらたまたまこの部屋の窓が開いたからさ、屋根からするするっとね」
唖然とした。子供とはいえ仮にも一国の王子が、異国の城を探検気分で歩き回っていたというのか。
はたと思い出す。そういえばお母様が、エジンベア王は色狂いの猿だって言っていた。こいつはその息子なのだ。とぼけたような顔をキッとにらみつける。
「信じられない! それが王子の振る舞いですか、恥を知りなさい!」
思わず語気を荒らげる。それに、眼前の少年は面白そうに頬を吊り上げて見せた。
「へえ、王子の探検ごっこは駄目で、王女様の脱走はオーケーなんだ」
「なっ」
絶句。冷たいものが背中を伝った。
「な、なぜそんなことを」
「いや、それ見りゃ分かるって」
指差す先には、ベッドの脚にくくりつけられたロープ。
「これはっ! ……ベッドを、ベッドを動かそうとっ」
「はいはい。いいって、別に言いつけたりしないよ」
まさしくいたずらを思いついた子供の顔で、彼は窓枠に片足をかけ、すっと右手を差し出した。
「逃げるんだろ? 言っとくけど、城を抜け出すことに関してぼくの右に出るやつはいないよ」
×××××
「あの時は確か、城下町の泉で捕まったんだっけ?」
「神聖な泉で水浴びなどしようとするからだ」
「いや、ネフィーも一緒に浴びてたじゃん」
「ふん、貴様が無理やり引っ張り込んだんだろう」
「……楽しく水をかけ合った覚えがあるんだけど」
「痛々しい妄想だな」
「はは……文字通り水掛け論ですか」
強情な女王の姿勢に、思わず苦笑する。素直な物言いができない性格――いや、立場になったのだ。お互いに。
逃亡劇は出会いの時だけ。しかしその後も、イクスはイシスに来るたびにこの寝室へ忍び込んでいた。逢瀬の時は数えるほどで、ほんの僅かな時間だったが、自分にとっては貴重なものだった。退屈で窮屈な国での生活をひと時でも忘れることができた。
そんな感傷を笑い飛ばすようにネフィレムは容赦なく核心を突く。
「それで、今度は何から逃げてきた? エジンベアから逃げ出して行方をくらましたかと思えば、まさか勇者一行に混じって放浪しているとはな」
「ははは……」
急所を真正面から突き刺され、イクスは苦笑するしかない。
「さすがは大国の若き女王、全てお見通しですか」
「貴様が成長しないだけだ」
ばっさり切り捨てて、背後からすっと差し出された椅子に当然のように腰掛ける。はっとして周囲を見回した。てっきり二人きりと思っていた室内に浮かぶ、いくつもの人影。薄布まとい腰に曲刀を下げた女剣士が、まさしく影のように潜んでいた。
イシス女王の親衛隊、『太陽の使徒』。
女王の背後、椅子を差し出した一人。部屋の隅でこちらを監視する一人。天蓋付きのベッド脇に一人。扉を守るように一人。もしかして、まだいるのか。信じがたいことだが、まったく気配を感じなかった。まさに女王という太陽を守る影だ。
いや、信じられなかったのはこの場に第三者が居ることだった。イシスに自分が来た時の夜は、人払いをするのが暗黙の了解だったはずなのに、半ば裏切られたような気持ちだった。
「私が一声かければ、お前をサボテンにすることができるぞ」
「冗談きついなあ。もう少しロマンチックな話がしたいんだけど」
「子供の戯れは終わりだ」
ネフィレムは優雅な仕草でこちらを指差した。
冷然と言う。
「私は王になった。お前は何者だ」
見下ろす眼差しは、イクスの知らないものだった。思えば彼女と最後に会ったのはまだ即位の前。そう、彼女は今、自分の知らないイシス女王としての彼女なのだ。視線の厳しさに肌が粟立つ。
「お前は何者だ。エジンベアの放蕩王子か、ただの変質者か、それとも勇者一行のお荷物か」
「ッ……随分な言い草ですね」
さすがにカチンときた。エジンベアでのことはともかく、この旅では自分もそれなりに命をはって来たのだ。
沸き立つ苛立ちをぐっとこらえる。どうも感情的になっている――彼女の言葉によって自分の仮面がはがされているのか。
イクスは胸中から言葉を絞り出す。
「俺は、俺ですよ」
「そんな薄っぺらな言葉で私を誤魔化せるつもりか、笑わせるな」
こちらの胸中を見透かしたように吐き捨てて、
「なぜ国を捨てた?」
投げられた言葉が、イクスの胸を刺し貫いた。かっと頭に血が上る。
「捨てたわけじゃない! ……ただ、俺は必要とされなかったんだ。あの国に俺の居場所は無い」
「お前は第二王子だ」
「兄様が居れば国は安泰ですよ。逆に、中途半端に俺みたいなのが居るから、馬鹿みたいな野心を持った奴が沸いてくる。俺が居ないことで国が安定するんです」
「なるほど。ではなぜバラモス討伐の旅を続けている?」
淡々と問い詰めるような物言いにだんだん腹が立ってくる。イクスは冷笑をにらみ返して、
「必要とされたんだ。……俺はこの旅に必要な人間なんですよ。勇者からサブのリーダーを任されるほどにね」
ピラミッドでシーザに言われた言葉。まだ自分の中で心が定まっているわけじゃないが、あれこそ必要とされている証拠じゃないか。
半ばやけっぱちでそれを話した彼女の反応は、冷笑から嘲笑に変わった。
「くくっ……なるほど。勇者殿もとんだ策士じゃないか」
「ど、どういう意味ですか」
「読まれ切っている、ということだ。意志薄弱でふらふらしているお前に、パーティを抜けられない理由を与えてくれたんだよ。他人の評価でしか自分の価値を計れない貴様のためにな」
「シーザはそんな奴じゃ……!」
そんな奴じゃない、そうなのか? 完全合理主義者の男だ。目の前の女王のように自分の胸中は見透かされて、良いように使われてるだけなのか?
「まあいいさ。つまり、要約するとこういうことだな」
こちらの動揺を余所に、彼女は容赦なく言葉を続けた。
「兄へのコンプレックスに負けて国から逃げ出し、魔王討伐で一花咲かせて国へ帰ろうと思っていたのが、今度は勇者へ同様のコンプレックスを抱いている。進むも戻るもできずにどうしたら良いか分からなくなって、私へ泣きついてきた……」
ドクン、心臓の音が聞こえたようだった。
気づけば背中にびっしょりと汗をかいている。さっきのように剣を突きつけられたわけでもないのに、それ以上の恐ろしさに体が震えた。
「は、はは……」
無様だ。
脱力して、イクスは腰を落とした。
壁に背を預けて、目元を隠すように髪をかき上げる。
「仰る通り、ですよ。はは、自分でも自覚していたつもりなんですけどね。ここまで急所を的確にぶッ刺されると、キツイなぁ……」
バラモス討伐の旅。世界を脅かす魔王を打ち破ること。それは自分にとって、コンプレックスの解消でしかないのだと。
最初からそんなつもりだったわけじゃない。しかしシーザの、仲間達の、目標に向かってひたむきに進む姿を見て、気付いてしまった。自分の卑小さを、矮小さを。
旅を続けるか、身を引くか。先延ばしにしていた問題が、今目の前に突きつけられる。
ここが、潮時か。
「残念ながら、俺には理想も大儀も志も、無い。そんな俺にこの旅は務まらないでしょうね……」
かえって踏ん切りが付いたかもしれない。このまま中途半端な気持ちで旅を続けたところで、足手まといになるだけだ。ピラミッドの時のように、仲間を傷つけるだけだ。
吐き出すように呟いた言葉は、仄暗い部屋にかすれて消える。
部屋に沈黙が落ちた。女王は哀れむような目でこちらを見下すと、やがて深いため息をついた。
「それで、それからどうするつもりだ」
「またどっか、一人旅でも始めましょうかね。諸国漫遊、美しき元王子。謎の魔法使いイクスの放浪記。詩人にでも詠まれそうな……」
「甘ったれるな!」
鼓膜が痺れるほどの強い言葉。
地べたを這っていた視線が自然と上向く。かつ、かつと床が鳴り、側に立った女王の指先がイクスの頬をそっと撫でた。冷たい感触。
「なぜわからない? 現状から逃げ出したところで、また同じ壁にぶつかるだけだ。その壁を越えない限り貴様は一生その先に進めない」
「……簡単に言ってくれますよね」
手を押しのけて立ち上がり、半ば八つ当たり気味ににらみつけた。
「俺はあなたや兄様や……シーザみたいな、強い人間じゃない。高いところから引っ張るのはやめてくれ!!」
ああ、情けない。こんな言葉しか返せないのか。今すぐこの場から消え去ってしまいたかった。
今度はどんな罵倒を受けるだろうと身構えるイクスに、
「お前にいいものを見せてやろう」
ネフィレムは儚げに、優しく、微笑んだ。
しゅる、衣擦れの音。目の前で、あろうことか夜衣をはだけたネフィレムにイクスは狼狽した。
薄暗い室内に浮かぶ、砂漠の住人とは思えない白い肌。深く落とした谷間に紳士の振る舞いも忘れて釘付けになる。なんだ、なんなんだこの展開!?
思わず浮かんだあらぬ妄想は、背を向けた女王に打ち砕かれる。
「……ッ!」
息をのんだ。あらわになった白磁のような背中に広がる、無数の火傷痕。美しい背に走る痛々しい傷跡。それがまるで文字でも刻むように整然と並んでいた。
いや――以前学んだ知識を呼び起こす。これは呪文だ。
魔導具などに使われる魔術文字。通常は水晶に封じ込ませ、魔法として発現させる。それを人間の体に刻み込む呪法。
「イシス王家に伝わる秘伝の術式だ。『ラーの祝福』。聖性で清められたナイフを火であぶり、呪文を刻む。それが王家の血と混じり合うことで、この国を守る力を生み出す」
淡々と語るネフィレムの言葉に、イクスは呆然とする頭を振って記憶を呼び起こす。
今では大きな街ならどこにでもある、魔物から国を守る結界。しかし賢者ナジミが魔物を祓う結界魔法を編み出す以前から、イシスは独自の結界によって国を守られていたという。世界で唯一、ナジミの結界術を必要としない国。神に祝福された国。そう呼ばれる裏に、こんなおぞましい儀式が隠されていたのか。
「年に一度、新月の夜に行われる神儀。少しずつ呪文を定着させていき、術式が完成したその日、私は女王になった」
イシスにおける女王の絶対性。それはただの地位ではない、国をその身で守るという確かな力が、神格にも似たカリスマを与えていたのだ。
しかし――思わず目を背けたくなる焼け傷の痕。イクスは戦慄した。その一文字一文字が、どれほどの痛みを伴うものか。
「これが、国を背負うということだ」
着衣を整え、再び微笑を浮かべる。その面に浮かぶのは絶対の自信。
覚悟を見せられる。文字通り国を背負う覚悟。イクスは何も言えなかった。ただ見せつけられた。自分には無い美しいものに。
ああ、やはり敵わない。
所詮自分は太陽に焼かれた細木だ。どれだけ空に手を伸ばしても天に届くことは無い。
イクスは艶然と笑む女王を力なく見つめた。彼女は何のつもりで王家の秘密を明かした? ただ自分を打ちのめすため? もしそうならどれだけSなんだ。
だが――イクスは思い直す――彼女の瞳は真剣だった。
「私は」
重大な告白をするように、
「お前のことが、羨ましい」
「……は?」
零れた言葉は、全くもって、想像外のものだった。
呆然して何の言葉も浮かんでこない。彼女は一体何を言ってるんだ?
「何の冗談です?」
ようやっとしぼり出したつまらない返答に、女王は黙ってさらに一歩近づく。手を伸ばせば届く距離。ほのかな香りが鼻孔をくすぐる。
「最初にこの部屋で会ったこと、覚えているな」
「……ええ、もちろん。忘れやしませんよ」
あの出会いはイクスにとって何物にも代えがたい思い出だ。忘れるはずがない。
「あの日、私は城を抜け出そうとした。生まれて初めて。なぜだと思う」
「それは……」
一緒に城を抜け出した日。たまたま忍び込んだ部屋にいた美しい少女との出会い。ほんのひとときの逃避行。
なぜ、などと聞くことはしなかった。自分はいつだって城を抜け出したかったのだ。王族である彼女も同じなのだろうと、子供の頃、イクスは単純に思っていた。
多分、今なら分かる。
「儀式から、逃げたかっ……た?」
目の前で初めて見せる、自嘲的な笑みが答えだった。
「あれは二回目の儀式の前日だった。最初はそれなりに覚悟もしていたがな、一度あの痛みを味わえば……恐怖が覚悟を超えた。見つかって城に連れ戻されてからは、母上にそれはもう叱られたものだ。国を負う者が使命を投げるなど許されないとな」
自分に言われたことのように、思わず身を固くする。ネフィレムは独白を続けた。
「一人では抜け出せなかった。どうせ連れ戻されるのは目に見えている。逃げるなど許されない、それも分かっている。ジレンマで押しつぶされそうな時――間抜けな子供が迷い込んできた」
「俺は――」
「そいつは王子のくせに、奔放で、身勝手で、何の束縛も無いかのように自由だった。立場を捨てて国を出たことは、お世辞にも褒められたことではない。それまで育てられた恩に報いず、あらゆる期待を裏切って、責任を放棄したのだ。ただ自分のために」
「………」
「でも、それでも、私は羨ましい。その選択が出来たことが。自らを囲う檻を飛び出せたことが。敷かれた道を外れて、自身の足で踏み出せたことを」
陰のある微笑。それは諦めた者の表情だった。国を出るまで毎日鏡に映していた、切望する場所へ届かないことを知った顔。
手の届かない、はるか高い場所にいる彼女が、ただ逃げただけの自分になぜそんな目を向ける?
そんな戸惑いを整理する間もなく、ネフィレムの手がイクスの胸ぐらをつかみ上げた。
「逃げたまま終わるな。もう一度自分の足下を見つめてみろ。私はもう女王の自分に縛られてしまった。だが貴様は、まだ何もしていないだろう」
そう言って突き飛ばされるのに抵抗もできず、後頭部をしたたかに打ち付ける。
だが痛いのは、ぶつけた場所じゃない。
「私はもう変われない。だから貴様は変えろ。その情けない面構えを人間並みに矯正してこい。そうすれば」
ネフィレムは悪戯をした少女のように笑う。
「私の足に口づける名誉を許してやるぞ」
言うだけ言って彼女は満足とばかりに椅子に掛けた。さんざんこき下ろして、少し持ち上げたと思えば再び叩き落とす。まったく、何という女王様だろうか。
「あ、ははは……」
もう、何というか、笑うしかない。自分の中で守っていたちっぽけなプライドは、巨大な鉄槌で粉々に破壊されてしまった。一体何を悩んでいたのかすら、よく分からなくなるほどに。
変えろ。
自分は変われるだろうか。
すっかりくつろいだ様子の女王が、ふと思い出したように片手のグラスを掲げて、
「そうそう、もう出てきても構わないぞ」
そんな事を、天蓋付きベッドに向かって言った。
がたっ、とベッドが揺れる。今度は何事かと注視したその先、ベッドの下から、
「は……はあああああああああ!?」
ベッドの下から、あろうことか、グラフトが這い出してきた。
鎧も剣も外したラフな姿、部屋で寝る時と同じ格好のまま、堅物の戦士は果てしなく憮然とした顔で、なぜか頭に猫が引っかかっている。
「な、な、な……」
混乱の極地に達し、正常な思考が追いつかない。そんな様子を実に楽しげに睥睨して、女王が告げた。
「城の中を忍び歩く貴様の後ろをこそこそと追い回っていたのでな、引っ捕らえた」
「ち、違う! 俺はただ、イクスが部屋を抜け出したのが気になっただけで……」
「それがなんでベッドの下に忍び込むことになるんだよ!」
「まったくだな。女王の寝台の下に潜んで息を荒くするなど、十度の絞首刑でも足りない」
「女王! ここでイクスの話を聞いてやれと言ったのはあなたでしょう!」
「痛々しい妄想だな」
「が……ぐっ……」
煩悶するグラフト。なるほど、状況はだいたい分かった。
「あー、つまり、最初から最後まで聞いてたわけだ。他人様のぶっちゃけ話を、ゴキブリみてーに地に這いながら」
「……それについては、すまないと思っている。だが」
グラフトが真っ直ぐ、こちらを見てくる。精一杯の真摯な眼差し……なのだろうが、ぶらさがる猫のせいで台無しだった。
「アッサラームに来る前の頃、ちょうどアリアの訓練を始めた頃からか、様子がおかしいと思っていたが、ピラミッドから帰ってからはそれに輪を掛けて暗い顔をしていた。表面上は明るく振る舞っているが、声のトーンが落ちている……いや、これはアリアに相談されて初めて気づいたんだが。そんな時に夜中に部屋を抜け出すのを見れば、気にもなるだろう」
しどろもどろに弁解するグラフト。
イクスは何も言えない。ただ、胸の奥にたまっていたドロドロとしたものが、いつしか溶けていくのを感じた。
「良い仲間を持ったじゃないか、貴様にはもったいないほどだ」
散々茶化しておいてそんなことを言ってくる女王に、
「ははっ! 女王の寝室に忍び込んだ変質者仲間がね」
グラフトの肩に腕を回して、笑った。
吹っ切れたように自然に浮かんだ笑み。「一緒にするな!」という抗議の声を聞き流して、イクスはネフィレムを見つめた。
「今宵は、これで失礼致します、陛下」
目を反らさず、真っ直ぐに、黒真珠のような瞳を見つめる。砂漠の国の女王は不敵に笑った。
「次に会う時は、床に口づけられる程度にはなっているのだろうな?」
「その胸元へキスできる男になってみせます」
「二人とも引っ捕らえろ。侮辱罪で断頭台送りだ」
「イクス――――ッ!?」
太陽の使徒が一斉に抜剣して、グラフトが悲鳴を上げた。
慌てたグラフトを背後の窓から突き飛ばして、自分も窓枠に足を掛ける。飛び出そうとした矢先、
「太陽の使徒は常に十二人。今は十一人。なぜだか分かるか」
唐突な言葉に意識を縫い止められ、振り返る。
視線の先には、先ほどの微笑とは打って変わって、ぞっとするほど冷淡に虚空をにらむ女王。
「つい数日前に、この部屋へ魔物が侵入した」
「なっ……」
「魔物、いや――あれはそれより高等な知能を持った、もっと邪悪な者だ。そやつは猫に姿を変えて、堂々とこの寝室へ忍び込み、私を襲ってきた。とっさに使徒の一人がかばわなければ、私は今この場にいないだろう」
悼むように目を伏せる女王。
魔族――バラモス配下の悪魔が脳裏をよぎる。
「ロマリアに続いてこのイシスでも同様な事があった。これがどういう事か分かるか」
イクスはごくっと喉を鳴らした。それは恐ろしい想像だ。
「結界は万能じゃない、ってことですか」
考えてはいた。ロマリアに潜んでいたアラストルという名の魔族。奴は人間の姿を借りて、邪気を隠したまま平然と生活を続けていた。つまり邪気に反応して魔物を弾くナジミの結界が通じないということだ。
「そして、奴らの狙いは国の中枢だ」
今度こそ――、
イクスは、全身に戦慄が走った。
ロマリアでは文官の一人に姿を変えて暗躍した。しかしもし仮に、王そのものになりすましたとすれば――
(兄様、マーゴット……親父)
心から慕う兄の、愛する妹の、嫌悪する父王の姿が去来する。そしてそれを包む、悪魔の影。
「いつまでイクスでいられるか、よく考えることだな」
酷薄な言葉を背に、
(クソッ……!!)
どうしようもない焦燥を胸に抱えて、イクス――エクシードは、逃げるように窓へ身を躍らせた。
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