第七章 故郷で待つもの

―衝撃と告白―


 首が、飛んだ。
 グラフトは震える手で、恐る恐る、確かめるように自身の首筋をなでる。大丈夫、錯覚だ。まだ繋がっている。
 吹き出た汗が額から鼻筋を伝い、口の端に垂れる。無意識にごくっと喉がなった。

 戦慄と共に確信する。自分は今、人生で最大の危機を迎えていると。

 叩きつけられた壁を背に倒れ込んだまま、助けを求めるように仲間達を見る。
 イクスはあごが落ちそうなほどの大口で呆然と固まっている。アリアは驚きのあまり身をすくませ、隠れるように外套の端をつかんでいた。つかまれているシーザは反射的にだろう、剣の柄に手を掛けたまま目を見開いて立ち尽くしている。
 そして、眼前には――
(どうする……どうすればいい……!? 引くも戻るもできない状況――いや、それでは逃げの選択肢しかないのでは――自分に突っ込んでいる場合では!!)
 流れる汗と首の鈍痛が思考をかき乱す。
 どうすればこの状況を乗り切れるのか、そもそもなぜこんな事態に陥ったのか。
 グラフトの脳裏に、絶望と共に走馬燈が駆け巡った。



 イシスを発った勇者一行は、一度ロマリアへルーラで戻った後、海を挟んで西に位置するポルトガへ進路を向けた。
 出立初日。街道沿いにある湖畔近く。すっかり日が落ち、夜営の準備を終えた4人は火を囲んで、ささやかな夕食にありついていた。
 夜間は昼間よりも魔物の動きが活発になる。本来なら手間のかかる調理はせず、携帯食などで済ますのだが、今は周囲に魔物よけの結界が張ってあった。砂漠でもアリアが使っていた結界魔法トヘロス。これまでの旅で成長したアリアは、周囲約10mの範囲を、一晩中守ることができるほどになった。島を丸ごと結界で包む賢者ナジミには遠く及ばないだろうが、夜の見張りの負担は随分と減っている。
 ロマリアで買い込んだばかりの新鮮な食材で作ったアリア特製スープを堪能する中、イクスが唐突に、スプーンで正面に座るシーザを指す。
「オーブ、本当にあるのか?」
 使いかけのさじを行儀悪くぴょこぴょこ揺らして――とても王族の作法とは思えない――放った疑問は、グラフトの心中にも渦巻いていた言葉だ。
 伝説のオーブによる、聖鳥ラーミアの復活。オーブがある可能性が高いと言われたイシスで、結果見つけることができなかった。元々信憑性の薄い話なのだ。存在自体に疑いを持つのも無理のない話だ。
「イシスの女王様は、オーブがピラミッドに納めてあると仰いましたよね?」
 小首をかしげてアリア。
 言われて思い出す。そういえば確かに、謁見の時に古くから伝わるオーブがあるとは明言していた。
「でもなアリアちゃん、ネ――女王の言っていたオーブが、伝説の不死鳥のものとは限らないだろ。なあ、シーザ」
 黙々とスープをかき込む少年は、再びの問いかけに平らげた皿を置き粛々と語る。
「イシス、アッサラーム共に、オーブそのものを発見することはできなかった。あとはランシールに奉られているというブルーオーブ。これが駄目なら計画を一から立て直さねばならない。そのためにもポルトガで船を手に入れる」
 ランシールはルビス教の総本部がある宗教国家だ。アリアハンの西側に位置する島国だが、海にはびこる魔物の影響で、現在はほぼ国交が閉ざされている。
 そんな中、現状世界で唯一外洋へ出られる船を造れる国が、世界一の造船技術を誇るポルトガだ。
「しかし勇者の立場とはいえ、船などそう簡単に手に入るだろうか」
 船一隻を造り上げるというのは、国家を上げての事業だ。まして、ポルトガの技術を欲する国も多いだろう。他国の人間に譲り渡すとは思えない。
 その指摘にシーザは首肯して、
「そのために、アリアハン、ロマリア、イシスの三国から親書を受け取った」
「ははあ、相変わらず抜かりねーのな」
 イクスが感嘆とも呆れとも取れる声を上げた。
 シーザは旅の進路として、オーブの探索に可能性の高いアッサラームからイシスへと向けた。しかし同時に、三国同盟の同盟国からそれぞれ勇者と認められ、さらに魔王討伐に不可欠な船を勇者のために造ってくれ、という旨の要望書を、各国の王から受け取っているということだった。
「シズ様、おかわりいかがですか」
「頼む」
 皆でひとしきり関心した後、食事が再開される。場の雰囲気としてはもう話は終わった状態だったが、グラフトはあえて口を挟んだ。
「シーザ、ランシールへ行こうと思うなら、ポルトガからテドン方向へ南下して、さらに南東へ進む航路になる。かなりの長旅だ。それよりも、ピラミッドの財宝を盗んだという盗賊を見つけ出した方がいいのではないか」
 ルイーダの酒場で魔王討伐に志願していた、エリッサとかいう盗賊の女。あの盗賊が先んじてピラミッドに忍び込み、オーブを盗み出したというなら、それを取り返した方が近道だ。
「グラフト」
「な、なんだ」
「その話はもう三度目だ。既に三国にも冒険者ギルドにも手配は依頼している。行方をくらました人間一人を捜す労力は裂けない。なぜそれに固執する?」
「ん……む……」
 主張はあっさりと切り捨てられ、おまけに切り返される。どう受けたものかと思案するのに、人の弱みにはめざとい男が目を光らせた。
「ポルトガっていったら、あんたの故郷だもんなあ」
「なっ……なぜ知っている!」
「ああ、そうなんだ。初めて知ったよ」
 くつくつ笑う魔法使いを忌々しくにらむ。まんまとはめられた。いや、隠し通せるものでも無いのだが――
 そんなやり取りを見て、純朴な少女が素直な疑問を浮かべた。
「故郷だと、帰りたくないんですか? グラフトさんは故郷が懐かしくないんですか?」
「いや、そういうわけでは無いのだが……」
「ははん、なるほどな。あれだろ、昔捨てた女がいたりするんだろ。実は何人も隠し子がいて『パパーお帰りー』『違うよボクのパパだよ』とか言われちゃうんだな」
「子供などいるか!」
「女の方は否定しないんだなあ」
「ぐっ……」
「そ、そうなんですか! グラフトさん、ここ恋人さんがいるんですか!」
「そんな、関係では無い。ただの、その、昔なじみというか」
「幼なじみなんですね! 素敵です!」
 いつもは控えめなアリアが、きらきらと目を輝かせて身を乗り出す。こういう話が好きなのは、年相応の少女といったところなのか。
「とにかく、決定に変更は無い。このまま予定通りポルトガへ向かう」
 シーザが無慈悲に話を打ち切った。グラフトは内心ため息をつく。
(故郷、か)
 懐かしくない、わけもない。勇者オルテガに憧れて故郷を飛び出したのは18の頃。もう10年も経ったのだ。その間一度も帰郷はおろか、手紙の一つも送っていない。
 若き日の思い。勇者オルテガに肩を並べられるような戦士になる、そんな言葉と共に飛び出して、ずっと顧みなかった故郷。
(いまさら、どんな顔をして戻れるというのだ)
 ふと、故郷に残してきた『幼なじみ』の顔がよぎる。今彼女は、何を思っているだろうか。
「……シーザ。ポルトガについたら、新しい防具を買いたいんだが」
「構わない。何をだ」
「鉄兜を買いたい」
「分かった。必要経費を後で請求してくれ。だが以前、兜は首回りが悪くなるから使わないと言っていたな。なぜ突然――」
「いや、万が一を考えて、な」
 シーザの疑問符に気づかないフリをして、グラフトは言葉をにごした。



 海洋国家として栄えたポルトガは、魔王台頭以前にはアリアハンからネクロゴンドを含めた世界9カ国との貿易を仲介していた。まさに世界の海を制覇したと言っても過言でない栄華を極めた時代もあったが、海に氾濫した魔物によって無数の漁船・商船が沈没。世界的に船での移動が困難になる中、唯一魔物の攻撃に耐えうる船を造り上げるものの、外洋に出るリスクが高いのは変わらず、現在では隣国の島国エジンベアを除いては、近海の漁船くらいしか船が出せず、国力は低迷の一途を辿っている。
 しかし10年前、魔王バラモス討伐に向かう勇者オルテガのために船を造ったのもまたポルトガである。オルテガの船は世界を渡り、最後はネクロゴンドで主の帰りを待ち続けているというが、何にせよ実績は出しているわけだ。本当に手に入ったなら、安心して海を渡れるだろう。
 ポルトガに入国するや、シーザはすぐに王への謁見を求めるが、多忙を理由に謁見は翌朝となった。まだ時刻は早朝。ひとまず宿を取り食堂で軽い朝食にありつく。
「あの、せっかく丸一日時間があるんですから、今日は自由行動にしませんか」
 食事を終えるや、アリアが恐る恐るという様子で提案した。
「オーブの情報収集、消耗品の買い出し、道具の整備、やることは山ほどあるぞ」
「そ、そうですけど、でも、着いたばかりなのですし……」
 相変わらずのシーザに、消極的にも食い下がるのが、グラフトには意外だった。彼女が自分から休暇を要望するのも珍しいが、シーザの意見に反論するのは滅多にないことだ。
 アリアはもごもご言いながら、ちらっとこちらへ視線を送る。しかしその意味は、鈍いグラフトには分からない。
 どう口添えをしようかと思案する間に、イクスがすっと手を挙げた。
「アリアちゃんにさんせーい! どうせ謁見してからでなきゃ今後の明確な方針も決められねーんだ。いいだろ別に。どっかの誰かさんも久しぶりに故郷の地を踏めたわけだし、な」
 イクスの目配せでようやく気づく。アリアはポルトガがグラフトの故郷と知り、気を遣ってくれたのだ。そんなことにも気づけない自信の愚鈍さに情けなくなりながら、慌てて同意の意思を上げる。
 三人の反対意見が一致した時、基本的にシーザは受け入れる。
「わかった。明日の朝に王城へ謁見する。それまでは自由行動だ」
 そう言ってさっさと立ち上がるシーザを、見越していたとばかりにイクスがすぐさま呼び止めた。
「おいおいシーザ君よ、どこに行くつもりだね?」
「剣を取りに――」
「やっぱりか! いいから少しは休みやがれこのトレーニングホリックがっ! どーせなら買い出し行ってこいよ。アリアちゃんと一緒に! なあアリアちゃんもそう思うだろ? こいつが訓練漬けにならないように見張っおいてくれよ」
「ええと、私はお買い物したかったですけど、シズ様はそれでもよろしいですか?」
「……わかった」
 存外素直にうなずく。町に着いては自由行動を要望するイクスは、これも恒例のようにシーザとアリアを一緒に行動させたがる。グラフトとしては余計な世話だと思うのだが、イクスに言わせれば『愛は世界を救う』、らしい。
 ただ最近のシーザは、アリアハンで出会った頃に比べて柔らかくなったような気はするのだ。気のせいとも取れるほんのわずかな違いではあるが、初めて会った頃のむき出しの刃のような眼差しが、今は鞘に納める術を覚えたように思える。
 旅を通してシーザも、故郷ではできなかった心の成長をしているのだ。連れだって出かける二人の姿を眺めて、感慨深い思いにかられる。
「さーて、俺はどうしようかね」
 腕組み、足も組んで椅子にもたれるイクス。その面差しは、イシスの一件から少しだけ吹っ切れたようにグラフトには見えた。おちゃらけたような仕草の中にも、芯が通ったように思えるのだ。
(シーザも、アリアも、イクスも皆、成長して――)
「おおっと!」
 おもむろに奇声を上げてイクスが立ち上がる。彼の目線にはきれいな顔立ちの女性二人組。食堂を出て行く彼女らの後ろをふらふらと着いていってしまった。ああ、結局あの癖は変わらないのか。諦めに似た眼差しで見送りながら、静かな朝の酒場で一人思う。
 自分はこの10年でどう成長したんだろうか、と。


     ×××××


 ポルトガの城下町に入って、最初に感じたのは潮風だった。
 強い潮の匂いと、体にまとわりつくような空気。海に面したこの街は、至るところに水路が敷かれ手こぎの舟が往来している。建物の造りが大きいロマリア。にぎやかで混沌としたアッサラーム。広大な砂漠の地で栄えるイシス。そしてポルトガ。色々な国の様式、特色を見るたび、世界の広さをアリアは実感する。
 そうして思う。アリアハンからここまで、本当に遠いところまで来た、と。
 過酷な旅路、常に命がけの戦い。アリアハンの教会で暮らしていた時からは想像もできない時間を過ごした。少しでも勇者の助けになりたい、という決死の思いで始めた旅。
(私は、役に立ててるのかな……)
 無言で歩く勇者の姿を横目に見る。物静かで、いつも先頭で皆を引っ張って、内に優しさも秘めた人。自分はこの人の役に立てているのだろうか。
 足手まといにはなりたくない。旅立ちから続けている魔法の訓練に加え、今は毎日シーザから直々に戦闘訓練も受けている。しかし旅を続けるにつれ、魔物の力も日増しに強くなっていく。いつか旅についていけなくなるんじゃないか。そんな不安はいつだってつきまとう。
「どうした」
「えっ」
 こちらの視線に気づいたらしいシーザが立ち止まる。
「気になる事でもあるのか」
「あっ……いえその、あの」
 真っ直ぐに見つめられて、何て答えたらと頭が混乱する。不安がすぐ顔に出る自分が情けない。あたふたとしてとっさに浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「その、シズ様は故郷、懐かしいですか? たまにはアリアハンに帰りたいって思いませんか?」
「故郷を懐かしむ余裕は無い」
 きっぱりと言い切った。予想はできた回答だ。彼はいつだって前を見ている。
「お前は帰りたいのか」
 こちらの胸中を見透かしたようなシーザの返答に、焦って即答する。
「いえっ! 帰りたくありません!」
「……帰りたくないのか」
「いや、そういう意味じゃなくって、その……」
 しどろもどろになるこちらを置いて、少年は再び歩き出す。慌てて追いかけながら、ふと気づいた。
(ちゃんと話を返してくれた……)
 シーザは必要ある時以外は、基本的にこちらの言葉に返答をすることしかしない。でもさっきは、こちらの話から気持ちをくみ取って、さらに言葉を続けてくれた。
 客観的に見れば些細なことかもしれない。しかしずっとシーザを見ていたアリアにとって、これは大きな変化だ。
(変わってるんだ。シズ様も!)
 胸の奥がそわそわして、思わず笑みがこぼれた。嬉しさが全身から沸きだしてきて、活力がみなぎってくる。
(お父さん、お母さん。私は、変われてますか?)
 遠い故郷の地に眠る両親に思いを馳せながら、少年の後ろ姿を追った。


     ×××××


 8歳の時、自分はまだ無力な子供だった。気が弱くて、周りからいじめられるだけの軟弱な子供だった。
 18歳の時、自分は大人になったつもりの、やはり無力な子供だった。憧れの人を追いかける夢と希望に満ちて、それ以外何も見えていない子供だった。
 今、自分は28歳。10年という月日は、自分をどう変えたのだろう。

 グラフトは物思いにふけりながら、懐かしい故郷の街を歩く。
 お気に入りだったパン屋。隠れて遊んだ路地裏。無理矢理登らされたリンゴの木。そのままの姿で残っているものもあれば、今は全く姿を変えているものもある。18年を過ごした生まれ故郷は、懐かしい風景もあれば、新しい発見もある。
(人が減った……か?)
 かつての記憶を掘り起こしながらよくよく観察してみると、以前に比べて人気というか、活気が無くなっている事に気づいた。昼間には新鮮な魚貝を仕入れたばかりの市に人がごった返していたものだが、今は人のいない屋台や締め切った店が目立ち、人通りもまばらだ。
 兜を買いに行った防具屋で店主に尋ねると、近年海の魔物が増え、近海の漁すらままならない状況が続いているという。各地を旅して常々感じる魔王の影響。しかし故郷の地がそれに侵されているのを見た時、今まで本当の危機感というものを実感できていなかったのだと気づく。
 魔王という存在は、ラーミアと同じだ。目の前で姿を見たわけでもない。ただ魔物の氾濫とアリアハン、サマンオサへの侵攻によりその存在が知らされただけで、それ以外の国にとっては、存在を認めながらも、本当にそんなものがいるのか、と心のどこかで思ってしまうのだ。
 考え事をしながら歩く内に、一本の大樹の前にたどり着いていた。無意識に足が向かったそれは、幼い頃『彼女』とよく遊んだ場所だ。
 樹の表面、グラフトの腰元ぐらいにひっかき傷がある。ああ、そういえばここでよく背比べをしたか。
『あたしの方が背が高いんだから、あたしの方がお姉さんだからね!』
 同年代の男子より頭一つ高かった彼女は、背比べをしてはしたり顔で言った。何年か後に背を越した時は、随分と悔しがったものだ。頬を染めたその姿まで鮮明に思い出せる。
「?」
 ふと、地面を蹴る軽い足音に注意を引かれる。音の先を見ると、駆け足で草を分け入る、まだ十歳かそこらの少女が見えた。
 薄い茶色の三つ編みを左右で束ね、くりくりした目を真っ直ぐ前に向けながら、せいぜいグラフトの腰元ほどしかない小さな体を精一杯動かしている。大きなかごを見るにおつかいの帰りといったところか。
 重そうな荷物にふらふらしながら、何を急ぐのか一生懸命に走るから見ていて危なっかしい。注意をしようかと思った矢先、
「ひあっ」
 案の定、つまずいて正面から盛大に転んだ。かごから魚やら野菜やらをぶちまける。慌てて駆け寄ると女の子は小さくうめきながら、何とかという体で顔を起した。目にみるみる涙が溜まるのを見て、グラフトは内心後悔した。もともと子供は苦手だが、とりわけ泣く子供ほど厄介なものはないのだ。
「だ、大丈夫か?」
「ふ……ふぇ」
「大丈夫! 痛くないぞ。怪我したか? 見せてみなさい。ほら、立てるか」
 助け起こして怪我の様子を見ると、手のひらと左膝に擦り傷。グラフトからすればたいした怪我ではないのだが、幼い少女にとってはそうではないようだ。ひとまず薬草を取り出そうとして、はたと気づく。そういえば手持ちを切らしていたのだった。
「うううううう」
「ま、まて、泣くな! すぐ良くなるぞ。そう、痛くない痛くない……ほら、痛いか? どこが痛む?」
「落としちゃった……ママに、おこられる」
「大丈夫、このくらい洗えば大丈夫だ。ほら、土だって払えば大丈夫だ。大丈夫。そうだ、ママには一緒に謝ってやるから、ほら泣くな」
「……おじさんが?」
「おじっ……!」
 少女の何気ない一言に、内心驚くほどの心的ダメージを受けた。そうか、このくらいの子にとって、もう自分はおじさんと呼ばれる年なのか……。泣かずにいてくれたのは良かったが、悲しい思いは拭えない。まあ以前から老け顔だとは言われていたが……。
「おじさん、どうしたの?」
「あ、ああいや、何でもない。ほら、歩けるか? 何ならお兄さんがおんぶしてあげようか」
「いいの? ありがとうおじさん!」
 泣き顔から一転、笑顔になる少女を見て、複雑な心境のグラフトだった。


     ×××××


「最っ低!!」
 ばちんッ、派手な音が往来に響いた。
 びりびりと痺れる左頬を押さえながら、イクスは彼女達が立ち去るのを苦笑と共に見送る。
(さすがにまずかったな。二人連れの片方にフラれて、すぐさまもう一人を口説いちゃうのは)
「……はあ」
 胸中に溜まるしこりを吐き出すような、重いため息。打たれた頬より胸が痛い。こんなところに来てまで、自分は何をしているのか。
「ネフィーに知られたら、また叱られちまうな……」
 ふいに、イシス女王との夜を思い出す。

『いつまでイクスでいられるか、よく考えることだな』

 ネフィレムが最後に告げた言葉が、呪いのように耳に張り付いて離れない。
 捨てたはずの故郷、エジンベアはここポルトガからは海を挟んですぐ近くだ。船が順調に手に入れば、数日中には行ける距離。
 自分は故郷に帰りたいのだろうか。帰るべきなのだろうか。帰らなければならないのだろうか。
 自らの居場所を見失い、跳び出した故国。しかしもし今そこへ、自分の大切な人達へ、魔王の手が伸びているとしたら。
 しかし同時に、まさかそんなことがという思いと、今さら帰れないなどというプライドが持ち上がって。願望と責任と逃避がない交ぜになって、ぐちゃぐちゃと心をかき乱す。
「あー、くっそおおおお!」
 混沌とした心を怒りに変えて、足下の小石を思いっきり蹴り上げた。放物線を描いて草陰に飛んでいく石をぼんやり見やりながら、深いため息をつく。
 と、がつっという硬いものをはじくような音がしたかと思うと、石の飛んだ先から黒い影がすごい勢いで跳び出してきた。反応をする間もなく、イクスの首筋に鋭いナイフが突きつけられる。
 無感動な眼差しを向けてきた相手は、誰であろう、勇者シーザだ。
「なんだイクスか……」
「そうだよ!」
「急にモノを投げるな。危ない」
「危ないのはお前だ!!!」
 ああ、いつだか同じようなやりとりをしたような。直前の懊悩が馬鹿らしくなって、イクスは内心苦笑した。


     ×××××


 少女の名はトーラといった。
 華奢な体つきに違わずおとなしそうな容貌だったが、母一人子一人の家庭の中、母の店を手伝いながら暮らしているらしい。
 背に負ぶさった少女とぽつりぽつり会話をしながら、グラフトは不思議な気持ちで見知った道を歩き続ける。
「父親はどうしているんだ」
「しらない。見たことないもん」
 聞いてみてから失言だったかと後悔したが、少女の返答はそっけないものだった。このご時世だ。魔物に殺され親を失う子は少なくない。かく言うグラフトも父親は海の魔物に、母親は病気で亡くしている。
 何にせよこの話題は引っ張れない。トーラの指示する方向に足を向けながら、グラフトは話題を変えた。
「お母さんのお店は、どんなお店なんだ?」
「さかば! お酒を飲むところだよ。おじさんも飲んでいってね!」
 年端もいかない少女にお酒に誘われるとは! 何とも微妙な心持ちだ。何にせよもうおじさん認定は覆せないらしい。
 そんな会話を続けながらさらに街の中心へ進む。見渡せば、よくよく見知った道だった。かつての自分の家からほど近いのではないか。そう思った矢先、
「あれ? グラフトさん」
 聞き慣れた声がして、振り返った先には見慣れた三人組。
「アリア。シーザにイクスも、皆一緒だったのか」
「だあれ? おじさんのともだち?」
「まあ、そんなところだ」
 身を乗り出して尋ねてくるトーラに適当に返答しながら、ほっとする。シーザは別として、アリアやイクスなら子供の相手も自分よりかよほど上手いだろう。
 そう思って見やった先には、ぽかんとした顔の三人。注がれる視線の先は、トーラ。自分がおぶさっている少女へと。
 イクスが重々しい足取りで近づいてくると、神妙な顔のまま大仰に言った。
「グラフト……お前って奴は、まさかそういう趣味だったなんて」
「違う! 違うぞ、これはそういうことじゃ」
「女がいるんじゃないかと思っていたが、まさかそんな親子ほども年齢が離れている相手だったなんてな。いや、わかるぜ? 人の趣味ってのはそれぞれだし、うん。でもな、仲間として忠告しとくが、あと5年待て」
「未だかつてない真面目顔で諭すなっ!!」
「こ、この娘が恋人さん、なんですか!?」
「違うと言っている!!」
 完全にからかっているイクスと本気で勘違いをしているアリアと、ついでに無関心なシーザに向けて必死に弁解をする内に、アリアがトーラのひざの怪我に気づく。
 怪我をホイミの呪文で治癒しようと提案するアリアに、なぜかシーザが待ったをかけた。その場でイクスとシーザが言い争いを始める。
「小さな怪我でも油断しちゃ駄目だぜ。ほっといたら最悪、破傷風になる危険性もあるんだからな」
「回復魔法の多用は人体の自己修繕能力を弱体化させる、魔法使いのくせにエマ論文を知らないのか。その程度の傷、なめれば治る」
「舐めればって! 幼女の生足に舌を這わせようなんてお前はなんつー変態だ!!」
「それはお前だ」
 二人の議論は白熱したが、結局アリアの「痛そうですし」の一言で治癒されたのだった。
 図らずもパーティが合流して、一緒にトーラを酒場に送ることになった。もう一人で歩けるだろうとは思ったが、乗りかかった船だ。それになぜか、トーラはグラフトの手を握って離さない。それについてもイクスがからかってきてどうにもばつが悪い。
「ここだよ」
 トーラが一軒の酒場を指さした。それを見てグラフトは言葉を失う。
 大通りからは一本外れた、さびれた――は言い過ぎにしても決して繁盛しているとはいえないだろう、小さな酒場。
(ここは……そんな……)
 トーラはグラフトの手を引きながら、仲間達を引き連れ玄関へ入る。カランカランと鈴が鳴って、入った先の薄暗い店内。4台ほどしかテーブルの無い狭い中、窮屈そうにしきられたカウンターの向こうに、グラスを磨く一人の女性。
 女性はこちらを、グラフトの姿を見た瞬間、石化したように固まった。グラスが手からこぼれ落ちて、それが割れる音にも気づかないように、ピクリとも動かない。グラフトも思考が完全に停止して、ただ彼女の姿を見つめるばかりだった。
 トーラより少し濃い、くせの強い短めの茶髪。背筋の伸びた、シーザとほぼ同じほどもある長身を、ほつれを直した跡の残る使い込まれたエプロンと、十年前ははいていなかった長いスカートで包む。しかし猫のようにつり上がった目は、十年経っても変わらない。
 彼女は十年前と同じ声で、十年前に別れた時と同じような、ふるえる声で言った。
「グラ……フト?」
「エディ……ナ」
 女性――エディナ。心の準備が間に合わぬまま出会った幼なじみに相対し、グラフトは頭が真っ白になる。
 そんな二人の様子に気づかず、トーラが彼女に自分たちのことを紹介する。
「ママ、おそくなってごめんなさい。このおじさんが、ころんだときにたすけてくれたの。あと、あのお姉さんがまほうでね……」
 少女の言葉は、最後の方まで頭に届かなかった。グラフトの頭を占めたのは、トーラがエディナの娘であるという事実。
 そして、子供がいるということは、
「……っ!」
 断崖から突き落とされるような衝撃と絶望感。そして、そんな思いを抱いたこと自体に驚きと後悔の念が巻き起こる。
 震えそうになる声を抑えて、グラフトは絞り出すように言った。
「そう……か」
 笑おうとして、口元が引きつるのがわかる。
 駄目だ、動揺するな。覚悟していたことだ。
 10年間。故郷を出てから流れた、自分にとって長大な年月は、この地で彼女にも流れていたのだ。何の連絡もしないまま今さら故郷に顔を出して、幼なじみに子供ができていたことに、自分以外の誰かと結ばれていたことに、ショックを受けるような資格は無いだろう?
「そうか、結婚、したんだな。おめでとう」
 精一杯の、祝福の言葉。
 エディナはそれに、本当に優しい、優しい微笑を見せた。



 がつんッ
 鼓膜が破れかねない、致命的な破砕音。



 首が飛んだ。そう思った。
 自身の体が信じられない勢いで壁に叩きつけられる。一瞬後、けたたましい音を立てて目の前に黒い塊が転がった。その、買ったばかりの鉄兜はえぐれるように陥没しており、三度床で跳ねて、短い命を終える。
 グラフトは震える手で、確かめるように自身の首筋をなでる。大丈夫、錯覚だ。まだ繋がっている。
 吹き出た汗が額から鼻筋を伝い、口の端をしめらす。無意識にごくっと喉がなった。

 戦慄と共に確信する。自分は今、人生で最大の危機を迎えていると。

 叩きつけられた壁を背に倒れ込んだまま、グラフトは助けを求めるように仲間達を見やった。
 イクスはあごが落ちそうなほどの大口で呆然と固まっている。アリアは驚きのあまり身をすくませ、隠れるように外套の端をつかんでいた。つかまれているシーザは反射的にだろう、剣の柄に手を掛けたまま目を見開いて立ち尽くしている。
 そして、眼前には――
(どうする……どうすればいい……!? 引くも戻るもできない状況――いや、それでは逃げの選択肢しかないのでは――自分に突っ込んでいる場合では!!)
 流れる汗と首の鈍痛が思考をかき乱す。
 どうすればこの状況を乗り切れるのか、そもそもなぜこんな事態に陥ったのか。
 一つだけ、はっきり確信できることがある。

(この笑顔は、エディが完全にぶち切れた時の顔だ……!)

 眼前に立ちはだかるのはかつての幼なじみの姿。長いスカートを大胆に巻き上げて振り上げられた脚は、グラフトの頭上で固まっている。大上段回し蹴り。その足には、身格好に不似合いな無骨なブーツ。鉄兜を打ち砕いた、鉄骨を仕込んだブーツだ。兜が無ければ間違いなく首が飛んでいただろう。
(変わってない。10年経っても彼女は全然変わってない!)
 眼前の死神は自然な動作で脚を降ろすと、石床を打ち鳴らして一歩、二歩とこちらに歩み寄る。グラフトにはそれが冥土へのカウントダウンに思えた。何とか起き上がろうとするや、至近距離に迫ったエディナのかかとが鉄鎧の上からみぞおちを打ち据える。
「10年も連絡無しに……突然帰ってきたかと思えば……」
 がちんっ、がつんっ、歴戦をくぐり抜け、何度となく命を守ってくれた鎧が、言葉と共に踏み降ろされるブーツに打ち据えられ、にぶい悲鳴を上げる。
 覚悟はしていた。別れの言葉も告げずに故郷を飛び出して10年。今さらおめおめ帰ってきたのに、怒りを覚えるのは当然だ。
 しかしそれを差し引いても、彼女の激昂は凄まじかった。怒りが熱波となって肌をジリジリと焦がし、汗が滝のように流れ落ちる。故郷で十数年共に過ごした間でもここまでの怒りは初めてだ。どうすれば収まるのか、想像もつかない。
 エディナはこちらの胸ぐらを片手でつかみ上げる。鎧と合わせて100kgは越える体が子供のように持ち上げられ、真っ正面からぶつけられた彼女の顔――
「結婚って何よ、ぶざけるんじゃないわよッ!!」
 その顔は、涙で濡れていた。
「馬鹿じゃないの!? 誰と結婚するってのよ、私が、この10年どれだけ……」
「ママ! どうしたの、止めて!」
 少女の言葉に、胸ぐらをつかむ手が緩む。再び床に打ち付けられて、グラフトは息を吐いた。
 エディナは愛おしそうに少女、トーラの体を抱きしめる。
 そうして、グラフトは今日、人生最大の衝撃を受けた。



「この子は、あなたの子よ! 私と、あなたのッ!!」




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