五章外伝 愛と傷痕

―傷痕の記憶―

 その日、いくつもの不運が重なった。

 ロマリアからアッサラームへの途上。それまで差していた日が唐突に陰り、雨が降り始めた。
 雲が弾け飛んだような突然の豪雨。周囲はまたたく間に雨音で支配される。
「シーザ、どうする!」
 ざあざあと響く音に負けじと、背後のグラフトが声を張り上げた。シーザはしばし考え、
「あともう少しで次の町だ。雨をしのげる場所も無い、このまま進む!」
 最後尾のイクスがうなずくのを確認し、シーザは再び歩を進める。
 雨は止まない。
 大粒の雨滴が体を叩く。視界が水の残影に塗りつぶされ、聞こえるものは雨音だけ。水を吸って重くなった外套。冷え切った体。どれも戦闘に支障をきたす要素ばかりだ。
(ルーラで引き返すべきか。いや、ここまで来ればそう魔物が出ることもない。今日は戦闘回数も少ないから余力は十分なはず)
 そう判断しつつも周囲への警戒は一層強めて、シーザは慎重に進む。その矢先、
「!」
 警戒の網に感触を覚えて、シーザは足を止めた。
「どうした」
 グラフトの問いを片手で制し、耳を澄ます。降りしきる雨の音に混じって、かすかにうなり声のようなものを感じたのだ。
(気のせい――いや)
 シーザの研ぎ澄ました神経が僅かな異変を捉えた。これは、
「シズ様、これは……!」
 異変に気付いたアリアから、緊迫した声が上がる。
 周囲を圧倒的な邪気が取り巻いていた。
 豪雨によって感覚が乱れていたのか。これだけの邪気に今まで気付かなかったのが信じられないほどだった。
「囲まれている」
 シーザは背の剣を抜いた。目をこらすが、視界が悪くてほとんど何も見えない。
「イクス、見えるか」
「ちょっと待て」
 こちらの言わんとしたことを察して、イクスは雨滴の向こうへ視線を飛ばす。遠視法である『鷹の目』ならば、と思ってのことだ。しばらく虚空を凝視していたイクスだったが、その表情は見る間に曇っていく。
「うわ、なんだよこの数。十、二十……五十近くいやがるぞ!」
「種族は」
「あれは……豪傑熊か?」
 体長三メートルはあろうかという獰猛な熊の魔物だ。単体ならばどうとでもなる相手だが、
「大量発生か、こんな時にっ!」
「魔物はこっちの都合なんて考えてくれねーからな!」
 突如として同種の魔物が大量に発生(・・)する現象。発生時期も地域も規模も規則性は無く、その原因はまったくの謎とされているが、一つだけ確かに言えることがある。
 即ち、まともに戦える相手ではないということ。
「退避する。全員ルーラの用――っ!」
 言い終わる寸前シーザは腕を振り払った。一瞬後、イクスの真後ろにまで迫っていた豪傑熊の眉間にナイフが突き立つ。イクスはさっと青ざめて、
「まじかよ、ありえねえ!」
 背後の光景に悲鳴を上げた。前方の集団に気を取られている間に、後方からも豪傑熊の群れが迫っていたのだ。
「走れ、南へ!」
 号令――四人は全速力で駆け出した。
 左右後の三方から波濤のように魔物が襲い来る。迫る敵を剣で魔法で牽制しながら、シーザは視線を走らせた。視界が悪くて判然としないが、ざっと七十近い数がいるようだ。こんな遮るもののない場所ではすぐにでも囲まれてしまうだろう。
 しばらく走って、見当をつけていた場所へとたどり着く。防壁のように広がる、見上げる高さの絶壁。振り向くと、魔物の群れとはまだしばしの間合いが空いている。
「っておいシーザ! 追い詰められてどーすんだよ!」
 眼前にそびえる岸壁を見て、イクスが焦りもあらわに言った。
「ここで迎え撃つ」
「おいおい冗談だろ! 逃げりゃいーじゃねえか、あんなの!」
「無謀だな。相手の方が体力も脚力も上だ。これだけ接近されればルーラも使えん。それに」
「放っておけば近隣の村が襲われる、か」
 シーザの言葉をグラフトが引き継いだ。イクスは観念したように、がっくりとうなだれる。
 群れの先頭が目前に迫る。崖を背にしてパーティは素早く陣形を組む。
「全滅させる必要はない。ある程度数を減らしたら撹乱して退避する!」
「ああ」「はい!」「へいへい」
 各々答えて、戦闘が始まった。
 前方から三匹が踊りかかるのに、前衛に構えたシーザとグラフトが斬撃で迎える。グラフトは一振りで二匹を両断し、シーザの剣が魔物の急所を貫いた。
「よっしゃ、そんじゃ夜な夜な特訓した成果を見せ付けてやりますか。行くぞアリアちゃん!」
「はい! えっと、何を?」
「もちろん、作戦名“風と共にサリーヌ”さ!」
「あ、分かりました!」
 謎の作戦に了解して、アリアは集中を始める。
「行きます、バギ!」
 呪文についで烈風が生まれた。風は渦を巻きながら雨の壁に文字通り風穴を空け、前面の魔物の足を止める。そこへ、
「くらいな、ベギラマッ!」
 視界が一瞬白で染まった。
 瞬間、シーザの真横を閃光が駆け抜ける。膨大な熱量を放つそれは真っ直ぐ、バギで空いた風穴へ突き刺さり、六体もの豪傑熊をまるごと飲み込んだ。雨水が蒸発して霧となり、また雨にかき消される。
 イクスは杖を誇らしげに掲げて、
「見たか、イクス様のベギラマ実戦初披露!」
「ベギラマ!」
 シーザの放った熱線が、接近していた三体を焼き滅ぼす。
「……お前ってさ、ことごとく魔法使いのお株を奪うよな」
「戦闘中に無駄口叩くな」
 恨みがましい言葉を一蹴して、シーザは再び剣を振るった。
 戦況は悪くない。
 魔物の数は多いが、単体としては難敵というほどでもない。この雨で体力が奪われることや、呪文の威力が減殺されること、視界や足場が悪くて手傷を負いやすいという懸念材料はあるが、まだ余力はある。このまま着実に数を減らせば問題ない。そう判断した。
 だがそれは思わぬところで覆される。
 予兆は音。頭上で何かが崩壊する音が響いて、シーザは反射的に振り仰ぐ。
 目を見張る。背にした岩盤が突如崩落を起こして、巨石が轟音を立てて落下してきた。瞬時に見定める。落下地点は――最後尾、アリアの頭上だ。
「ッ……!」
 瞬く間に迫る岩石。アリア、見上げて硬直。警告、間に合わない。駆けつける――間に合わない!
 迅速に決断、シーザは剣を振った。
 一瞬後、目の前に岩石の雨が降り注ぐ。間一髪、シーザは剣の腹でアリアを弾き飛ばしていた。乱暴だが他に手が無かった。
 だがそれでは終らなかった。地面に転がったアリアの側で、豪傑熊が腕を振り上げる。
 反応できない。間に合わない。
「アリアッ!」
 悲鳴は、上がらなかった。
 豪傑熊の豪腕が、獰猛な爪が、アリアの細い背中を切り裂く。
 暗い世界に赤が散る。
 魔物が再び腕をかざした時には、シーザはその体を両断して、アリアの元に駆けつけた。
「ホイミ!」
 即座に回復魔法をかける――が、微弱な光はせいぜい出血を抑える程度のものだった。シーザは改めて思い知らされる。聖性の弱い自分では回復魔法は使いこなせない。
 傷を見る。白い背中に痛々しい赤が刻まれていたが、深くはない。内臓や神経に至る重傷ではなかった。だが出血が酷い。加えてこの天候では、危険だ。
「アリアはっ!?」
 魔物の攻勢に押されたのだろう、後退してきたグラフトの声には焦りが滲んでいた。イクスも必死に応戦している。この数相手に二人では長くもたない。加えて、一刻も早くアリアを安全な場所で治療しなければならない。もはや猶予は無い。
「グラフト、アリアを頼む」
 抱えたアリアを手渡して、入れ替わりに迫った魔物を斬り捨てる。魔物はまだ半分も減っていない。辺りは完全に包囲されていた。
「どうする気だ!?」
「俺が退路を開く。グラフト、続け。イクス、殿しんがり任せた」
 もはや策も何も無い。強行突破、危険だが、それしかなかった。グラフトもイクスも覚悟を決めてうなずく。
「行くぞ!」


     ×××××


 アリアは走っていた。
 昏い世界の中、息を切らせ、時折足をもつれさせながら、必死に走っていた。
 後ろを見ると、背後に巨大な黒い影が迫っている。見るだけで全身に恐怖がはりつく、おぞましい影だ。
 逃げなければ、早く、早く!
 走る、走る、走る。しかし影が、ついにアリアの背をとらえた。重い衝撃。脳を貫く激痛。心臓が止まるほどの絶望感。アリアは泣きながら、冷たい地べたであえぐ。
 影が再び迫る。
 もう駄目だ。朦朧とする意識の中思ったその時、光が現れた。
 白い光はアリアをかばうように包み込んで、影からその身を守ってくれる。全身に温かいものがあふれ、根拠の無い安堵が胸中に広がる。
 しかし光は徐々に薄れていった。温かかったそれは氷のように冷たくなり、白い光が真っ赤に染まる。赤、赤、赤。
 アリアは泣いていた。消えていく光に、失われていく温もりに、ただ泣いていた。
 光が消える直前、自分の名前を呼んだような気がした。



 目を開けると最初に、白いものが見えた。
(なんだろう?)
 ぼんやりと考える。確か自分は何かに追われていて……、
(違う)
 あれは昔の夢だ。時たま苛まれる悪夢。今も残る傷痕。
(何をしてたんだっけ……)
 朦朧とした頭で思い出す。今日は急に雨が降ってきて、おまけに魔物がたくさんやってきて、それで……、
 考える間に視界が晴れてきて、目の前の白が枕であることに気付いた。それで分かる。自分はベッドにうつ伏せで寝ていたのだ。
(だとしたらあれも夢?)
 背中に叩きつけられた衝撃。あれはただの、過去の回想だったのか?
「目が覚めたか」
 聞き慣れた声。うつ伏せのまま顔だけ向けると、ベッド脇の椅子に思ったとおりの少年の姿。
「シズ様。わたし?」
「何があったか、覚えているか」
「えっと」
 言葉につまる。記憶が混乱していて、何が現実だったのかはっきりしない。
 それを見てとってか、シーザの後に立つグラフトが口を開く。
「お前は豪傑熊に背後から襲われて気絶したんだ」
 うつ伏せのままなので表情が見えないが、心配そうな声だった。彼の言葉でアリアはようやく悟る。やはり、あの衝撃は夢ではなかったのだ。
 このままで会話するのは失礼と、アリアは起き上がろうとして――体に力が入らなかった。
「無理したら駄目だって。まだあれから半日も経ってないんだから」
「いえ……」
 慌てて静止してくるイクスに笑みを返して、アリアは何とか体を持ち上げた。体は気だるいが、痛みは無い。
 起き上がり改めて三人の姿を見て、アリアは息を呑んだ。三人とも、いつもの旅装束がボロボロだ。服がそこら中破けて、所々が赤黒く汚れている。中でもシーザが一番酷い。ぱっと見ただけでも両腕、腿、肩の部分が大きく破れ、出血の跡がある。傷は治っているようだったが、シーザがこれほど負傷するのは、カンダタと戦った時以来のことではないだろうか。
 そうして気付く。あの時も、自分が気絶したせいで苦戦することになったのだ。アリアの胸がきゅっと締まった。
「ごめんなさい。私、また迷惑を掛けて」
「そう気に病むな。今回のことは誰のせいでもない。運が悪かった」
 グラフトの慰めは嬉しかったが、しかしアリアは自分の不甲斐なさが許せない。
「わたしが、私がもっとしっかりしていたら、皆がそんなに怪我をすることなんてなかったのに」
「そうは言うけどさ、アリアちゃんが一番の重傷だったんだぜ? たまたまこの街に高位の僧侶がいたから良かったけどさ。応急処置が無かったら危なかったって……あー」
 応急処置――その言葉ではたと気付いた。自分が今、素肌に包帯を巻いただけの姿であることに。
「気絶した女性の肌を見るなんてのは紳士道に反するんだけど……緊急時だったからさ」
 ばつの悪そうなイクスの言葉に、アリアは顔を()くした。
(見られた)
 思わず布団を抱き寄せて、ちらりと三人の顔色をうかがう。グラフトの表情はかげり、イクスは目線をそらして、シーザは真っ直ぐこちらを見据えていた。視線から逃げるようにアリアはうつむく。
(もしこのことが知られたら……)
 そう思うと絶望的な気持ちになる。何とかごまかせないだろうか――というその考えは、やはり間違っていたのだろう。隠し事はルビスの教えに反する行為だ。いずれこうなることを覚悟すべきだったのかもしれない。
 (あば)いたのは、シーザだった。
 彼はぬっと手を伸ばすとアリアの左手を引き寄せ、ためらいなく言った。
「お前、左腕に障害があるな」
「ッ……」
 アリアは息を呑んで、顔をそらした。だが言葉は容赦なく続く。
「その背中の古傷(・・・・・)が原因なんだろう」
 確信をつかれ、アリアは言うべき言葉を失った。
 足元が音を立てて崩れていく思いだった。
「本当なのか?」
 グラフトは信じられない、と頭を振った。アリアはうつむいたまま答えられなかったが、それは肯定したと同じだ。
「しかし、そんなそぶりは全然……」
「障害といっても、まったく動かないわけではないのだろう。だが俺が今まで見てきた中で、アリアは一度も左手で重いものを持ったことが無かった。鍋も両手では持たなかったな」
 もっともその傷を見るまで確証は持てなかったが、とシーザは付け足した。
 傷。左肩から腰まで刻まれた傷。鏡に映すたび背中に、胸に、うずくような痛みをよみがえらせる、傷跡。
 もう、反論の余地は無い。
「アリア」
 心を見据えるような、真っ直ぐな少年の瞳。
「なぜ、隠してた?」
 責めるでもなく、ただ淡々と事実を確認するような口調が、今は逆に辛かった。
 その様子を見かねてか、イクスが口を挟む。
「もういいだろシーザ。誰だって隠し事の一つや二つあるさ。それにそんなたいしたことじゃ」
「たいしたことじゃない、本当にそう思うのか。片手が使えないということが、武器の扱いにおいてどれだけ不利になるか、分からないわけじゃないだろう」
「んなっ……アリアちゃんに武器を使わせる気なのか!」
「最低限、自分の身を守るためには必要だ」
「お前ッ!」
 口論を始める二人を見て、アリアは、
「待ってください!」
 思わず叫んだ。
 場が一瞬で沈黙に満ち、皆の視線が一身に集まる。
「わた、わたし……」
 目から熱いものが込み上げる。必死でこらえ、アリアは告白した。
「わたしが、悪いんです。私、ただでさえ、役に立ててないのに。もし、こ、このことが知られたら、これ以上……ついていけないんじゃ、ないかって、そう思ったら言い出せなくてッ……」
 目が潤んでよく見えない。でも涙を流したくなかった。これ以上迷惑をかけたくなかった。
「でも……ッ、駄目ですよね。それで、みんなに迷惑かけちゃうなら、そんなのただの自分勝手ですよね。私、間違ってました。本当に、ごめんなさい」
 そうして深く頭を下げた。もうこれ以上の言葉は出ない。こぼれそうになる涙を懸命に抑えながら、アリアは言葉を待った。
 アリアの中で葛藤があった。これ以上ついて行っても迷惑かもしれない、という気持ちと、それでも旅を続けたいという思いが。
(でも、もしシズ様に、ついてくるなと言われたら、その時は――)
 覚悟を抱いて待つアリアに、彼は想像もしなかった言葉を返した。
「謝るのはこちらの方だろうな」
「……えっ」
 思いもかけないことに、反射的に顔を上げる。
 シーザはいつもの顔で、澄んだ眼差しで、淡々と言葉をつむぐ。
「腕のこと、もっと早くに気付くべきだった」
「そ、そんな! そんなの、私が隠してたからで、そんな」
「それに」
 彼は息を吐き、静かに言った。
「俺はまだ、信用に足るリーダーにはなれていないようだな。俺が今になって、お前に帰れなどと言うわけないだろう」
「――ッ」
 アリアは再びうつむいた。目を閉じる。強く。強く。
「アリアハンを出た時から、覚悟は決めている。この四人で魔王を倒し、全員で生還するとな」
 ついにこらえ切れず、アリアは膝元を濡らした。
(私、バカだ……)
 目からせきを切ってこぼれ落ちるそれは、嬉し涙ではなかった。
 左手の障害を知られれば、アリアはもう旅についていけない、置いていかれると思った。足手まといになるなら、そう選択せざるをえない、そう思った。
 しかしシーザは、覚悟(・・)していたのだ。
 シーザは強い。強いが故に全てを抱え込んでしまう。だから駄目なのだ。彼にこれ以上の重荷を背負わせてはならないのだ。
 彼を助ける。そのためには、何より強くならねばならない。勇者と肩を並べるほどに、強くあらねばならない。
(覚悟してたはずだったのに。今は駄目でも、努力で補うって)
 シーザはルイーダの酒場で、回復魔法しか能のないアリアを仲間に選んだ。それはなぜか。
 彼はあの時こう言った。現段階の実力は問題じゃない。バラモスと相対した時、それに敵う力があればいい、と。
 彼は覚悟していたのだ。魔王と戦うその時までに、アリアをそれに見合うまでに鍛え上げることを。
 そして、彼は信頼してくれていたのだ。アリアがそれに応えると。
(それなのに、私は)
 その信頼を裏切っていた。心のどこかで迷いがあったのだ。自分は本当に、この旅についていけるのか。彼は信じていてくれたのに。傷を抱えてもなお、強くなれると。
(強く……)
 アリアは目元を拭った。もう涙は止まっていた。
(強く、なりたい)
 傷の記憶を乗り越えられるほどに。彼と肩を並べるほどに。
(そのためには――)
 アリアは今一度、覚悟を決めた。
 目を見開き、顔を上げる。
 シーザを、グラフトを、イクスを、真っ直ぐな瞳で見据える。三人は黙って、アリアの言葉を待っている。
「私、もう逃げません」
 傷を乗り越える、そのためには、この傷と向き合わなければならない。
「だから――」
 アリアは決然と言った。
「私の話を、聞いていただけますか?」
 そうして、語った。
 今も背に残る、傷痕の記憶を。




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