五章 邂逅する戦場
―邂逅〜傍観者〜―
世界は廻る。
三度目の『儀』が始まり、世界は着実に分岐点へと進んでいる。
白と黒。
表と裏。
聖と邪。
相反する二極は大地に生れ落ち、その身を静かに燃え上がらせる。
創造。
破壊。
世界の命運を掛けた二つの選択肢。
世界の命運を預けられた者たちの、幾千の時を越えた戦い。
「果たして、結末やいかに?」
×××××
そこは言わば、意識の世界だった。
眼識、鼻識、耳識、舌識、身識。五識のいずれも及ばない世界。だから、今感じている妙な浮遊感も、聞こえる声も、それらは五感を介さない、意識によって感じとったものだ。
だからこの声は声ではなく、意識の中に浮かんだ言葉だ。
――シーザ……シーザ……私の声が聞こえますね
(解っているならいちいち尋ねるな)
届いた言葉にシーザは胸中でうんざりと呟く。
眠ると時折聞こえる、意識の呼び声。それはとてつもなく遠くから聞こえるようでもあり、また自身の胸の内から響くようでもある。そんな不可思議な現象も、既にシーザは慣れきってしまっていた。
――シーザ……今、貴方の周りに闇の胎動が見えます
(だろうな)
エルフと人間の戦い。暗躍する魔族。跋扈する魔物たち。指摘されるまでもなく、今自分の周囲には黒々とした感情が渦巻いている。
シーザの答えにも、意識の言葉は反応を示さない。やはりこれは一方通行のものらしい。
――闇に呑まれてはなりません。暗黒の中にも、目をこらせば必ず光明が見出せるでしょう
(言われるまでもなく、俺は諦めるつもりなどない)
――魔王はその力を着実に増しています。世界を破滅から救えるのは、貴方だけ――
(勝手なことを……)
――勇者……に……霊神ル……祝……
(――っ!)
突然、意識の世界に雑念が走った。同時にシーザは鋭い痛撃を感じる。
一瞬の静寂。痛みが治まった後に、再び言葉が響いた。
――ふむ、忘却の地からの意識調和か……ご苦労なことだ
唐突に変わった口調……否、第三者の言葉だ。
――まあそのおかげで、こうしてコリドラスを捕捉できたわけなのだが……しかし精神防御が厳しいな。これはコリドラスとしての特性というより、生来の性質か
(何だ? 一体……)
シーザの脳裏に、言い知れぬ違和感がよぎる。まるで体の一部が別の人間のものになったような異物感。
――容易く深層までは入らせてくれないか。オルテガとは正反対だ。それもまた、面白い
言葉と共に、シーザは自分の心が抉じ開けられるような感覚に襲われた。心の壁を次々と貫き、それは深層にまで到達しようと――
(出て……行けぇぇぇ!!!)
シーザの叫びに、意識は眩い光に覆われた。
×××××
「――っ」
シーザは跳ね起きた。激しく脈打つ心臓を右手で押さえながら、左手で額の汗を拭う。まるで戦闘後のように息が荒い。高ぶった気を鎮めようと、シーザは固く目を閉じた。
(今のは、一体……)
いつもの意識の言葉に、突如介入した第三者の声。心の内を強引に抉じ開けられたような感覚が、シーザの思考を掻き乱す。
(こんなに動揺するとはな……らしくない)
乱れた気を無理矢理宥め、シーザは目を開いた。視界に入ったのはパチパチと火花を散らす炎。そしてその横で薪をくべるグラフトの姿。
「? シーザ、起きたのか」
こちらの様子に気付いたグラフトが顔を向けてくる。
「まだ交代には早いぞ」
言われて、シーザは天を仰いだ。星の位置からして、まだ眠って一時間といったところだろう。いつもは男三人、約二時間交代で見張りをしているため、まだ一時間はあることになる。
だが今のシーザには、このまま眠りにつくことなど到底できそうになかった。
「目が冴えてしまってな。替わろう」
「そうか? なら、そうさせてもらおう。また眠りたくなったら起こしてくれ」
そう言って彼は木によりかかり、目を閉じた。右手は剣の柄に手をかけたままだが、しばらくして寝息を立て始めたのはさすがに旅慣れているだけある。眠れる時に寝るというのは、野宿が少なくない冒険者にとって必須のスキルだ。
目線を移すと、焚き火を囲んで横になるイクスとアリアの姿が映る。イクスは自らのローブで体を包みながら、仰向けになっていびきを掻いていた。まるっきり熟睡しているように見えるが、非常時にはすぐさま飛び起きてくれるものと信じたい。アリアは敷き草の上で横になり、静かに寝息を立てている。しばらくベッドで寝る生活が続いた所為だろう、いささか寝苦しそうな様子だった。
シーザは再び黒海を見上げた。満天に広がる星の海を目にしながら、先程の言葉を反芻する。
(コリドラス。アレフガルド。オルテガ……)
まるで意味の解らない、しかし無視できない言葉。一体それは何なのか。何をもたらすのか。
(考えて解るものではない、か)
混迷する思索を振り切るように、シーザは薪を炎へ投げ入れた。
×××××
陽が昇る。東の山間から指し入る朝日が大地を撫で、草原に、木々に、全ての生命に、優しく一日の始まりを伝えた。
そんな光景に感慨を覚えるでもなく、イクスは大きくあくびする。
「あー、ねむ」
両手を天に突き上げ体を伸ばす。全身の筋肉をほぐしながら、ふと吹いた風に身を震わせた。
「うー、寒っ」
ロマリアの季節はもう秋だ。しかもここはカザーブよりもさらに北、大陸最北端の街、ノアニールへの途上である。シーザに言われて厚手のローブを新調していなければ、寒さで眠れなかったかもしれない。
そんなことを思いながら、当のシーザに何気ない視線を送る。
木に背中を預け、微かな寝息を立てている。竜鱗の盾とサークレットを外し、いつもは背に負っている剣も今は大地にその身を委ねていた。青白色の外套に身を包んだその姿は、それだけ見れば静かに眠る少年である。しかし乱雑に伸ばされた黒髪に隠れる閉ざされた瞳からは、就寝時も尚、鋭い光が漏れ出でているように思えてならない。
(ったく、たまには気の抜けた様子も見てみたいもんだぜ)
嫌なことを思い出して、後頭を掻きつつ小さく溜息をつく。
まだロマリア大陸に入る以前、レーベを発った当日の夜のこと。見張りの番をしていたイクスは、前日の夜更かし(大人には色々とあるのだ)のため、つい寝ぼけ眼になってしまっていた。そこに運悪く、巨大な蝶の魔物――人面蝶が、焚き火の光につられてか、襲ってきた。
慌てて杖を手に取ったその刹那、さっきまで確かに眠っていたはずのシーザが右手を振り上げた。そして一瞬後、少年が投擲したナイフは魔物の顔面、本来胴体である箇所にある大きな顔のど真ん中を貫いていた。
こちらが唖然とするのに、目を覚ましたシーザは何事も無かったように、ただイクスの不注意を指摘した。イクスは思いのほか狼狽しながら、今の出来事についてシーザを問いただした。
少年の返答によれば、彼は睡眠中でも自分に対する敵意を察知し、それに対応する訓練を積んでいるという。常に周囲の空間を把握し、ひとたび敵を認識すればすぐさま狙撃する。そのためにシーザは旅立ちの何年も前から、アリアハン近郊の草原で寝起きしていたというのだ。
(信じらんねぇ……やっぱ異常だぜ、コイツ)
その時、イクスはそう思ったし、その思いは今でも持続している。
そんな訓練をすること自体が信じられないが、それをものにして実践してしまうのだから脅威としか言いようが無い。目の前で眠る少年を見て、イクスは改めてそう思ってしまう。
その身はあたかも鞘に納まらぬ白刃。研ぎ澄まされ、敵を切り裂くためだけに存在する冷酷な兵器。
と、
「おはようございます、イクスさん」
後から聞こえた明るい声に、イクスの思索は霧散した。目線をそのまま背後、声の主へと向ける。
「おはよー。今日も可愛いね、アリアちゃん」
「えっ、あっはい。ありがとうございます」
イクスの挨拶に、少女は戸惑うような照れるような、何とも微笑ましいリアクションを返してくれる。そんな様子を見ていると、先程までの複雑な思いが綺麗に洗い流されてしまうから不思議だ。
アリアはパーティの中で最も起床時間が早い。それは野宿に限らず、宿に泊まった時も含めてだ。そもそも彼女は教会の修道女。朝日が昇る前に目を覚ますのが当たり前の生活をしていたのだろうから、当然と言える。
野宿の際に見張りの役に立てないことを気にしてか、アリアは早朝、朝食を採りに行っていた。今はちょうど帰ってきた所である。単独行動は危険と、目を覚ましたグラフトも同行はしたが、彼女なりに役に立とうと必死なのだろう。
(ああ、健気だねぇ……)
思わず頭を撫でてやりたくなってしまう。イクスにとってアリアとはそういう少女だった。
「シーザはまだ起きないのか」
遅れてやってきたグラフトが言った。再びシーザを見やるが、そこにあるのは相変わらずの抜き身の刃。
「昨夜、どうも眠れなかったようだからな。それに疲れもたまっているんだろう」
グラフトの言葉にイクスは肩をすくめる。
「起きるのが遅いのはいつものことだろ」
そう、シーザはどうにも寝起きが悪い。いざという時はすぐさま跳ね起きるクセに、普段は四人の中で最も遅いのだった。ある意味では、僅かながらでもそういう人間らしい所に安心できるという気持ちもあるのだが。
「けど、こうして見てると……」
眠るシーザを眺めながら、アリアはくすりと微笑む。
「なんだかシズ様の寝顔って、可愛いですね」
「なっ」
「えええ!?」
グラフト、イクスは揃って素っ頓狂な声を上げた。
いくらなんでもそれはないだろう。二人の言葉に、アリアは「そうですか?」と小首を傾げた。
「と、とにかく! 早いとこ起こそうぜ。俺らは一刻も早くノアニールに行かなきゃならねーんだからよ」
話題を切り替えつつ、イクスは手のひらサイズの石を拾い上げる。
「そんなもの、どうするつもりだ?」
「こうするのさ」
にやりと笑って、
「う、お、りゃああああぁぁぁぁっ!!!」
イクスは石を全身全霊の力を込めて投げ放った。グラフトが止める間もなく、石はシーザの頭に――
ガッ
刹那、シーザの振り上げたナイフによって石は弾かれた。コンマ何秒差で、今度はイクスの顔面にそのナイフが飛んでくる。
「うわっと」
反撃まで予想していなかったイクスはもろに体勢を崩した。間一髪、ナイフは背後の木に突き刺さる。
安心したのも束の間、シーザは弾かれたように飛び起きて、いつの間にか抜き放っていた剣をイクスの喉下に突きつけた。その状態のまま、四人は硬直する。
―――。草原に沈黙が落ちる。しばし黙考の後、シーザはおもむろに口を開いた。
「……イクスか」
「そうだよ!」
「急にモノを投げるな。危ない」
「危ないのはお前だ!!!」
×××××
憤慨するイクスを半目で見やりながら、シーザは頭痛に眉をしかめた。まるで頭に重石を乗せられたようで、思考が働かない。普段も起床時は頭が回らない方だが、今日は輪をかけて酷い。
(この頭痛……まさかあれが原因か?)
昨夜、意識の会話に強引に介入してきた第三者の言葉。あれがシーザの精神に負荷を掛けたのだろうか。そういえば、とシーザは思い起こした。時たま聞こえてくるあの意識の呼び声を聞いた翌朝も、平時より頭痛が酷くはなかったか。
「そういえばシーザ、剣の使い勝手はどうだ?」
唐突な話題を振ってくるグラフトに、シーザは右手の剣を掲げる。
「ああ、悪くない。慣れるには今しばらく時間がかかりそうだが」
カンダタとの戦いで折れた鋼の剣は、修復は可能だったものの、一度折れた以上強度は間違いなく下がるということで、ロマリアにて新調した。十二の頃から約四年間使っていた剣だが、一般的な剣の寿命に比べれば随分ともった方だし、愛着があったわけでもない。
(武器というのは所詮、消耗品だ。壊れれば、また新しいものを用意すれば良い……)
卸したての鋼の剣。磨きぬかれた白刃は、無言のまま静かに陽光を照り返す。
「で、偉大なる勇者様。手前どもの勝手な申し出、誠に恐縮でございますが、そろそろお目覚めになられてはくださりませんでしょうかね。貴殿の仰られたノアニール到着予定日に間に合わせるためには、本日中に行程の半分は経過しなければなりません故に」
慇懃無礼なイクスの言葉。しばし呆然と剣を眺めていたシーザは、我に返って頭を振った。
「……ああ、すまない。すぐにでも出発しよう」
シーザがロマリア王の座を降りてから、既に二日が経過していた。王座返還式典が終わった後、一行はすぐさまロマリアを出発、既に一度カンダタ討伐の際に通ったカザーブの村へイクスのルーラ(一応習得したらしい)で飛び、そこから一路ノアニールへと向う。カザーブからノアニールまでは、どう頑張っても六日はかかる。つまり、悠長にしている時間は無いというわけだ。
(ロマリアが一体いつ動くのか解らんが……希望的観測をしていられる状況ではないしな)
ひとたび戦いが始まってしまえば、もう個人がそれを止める術などない。だから一刻も早く、夢見るルビーを探し出さなければならないのだ。
(見つかる可能性は低いが……まだエルフと直接交渉する手もある。絶望的な事態じゃない。何とかなる……いや、何とかしなければ)
自分に言い聞かせるように、シーザは胸中で呟く。とにかく今は先に進まなければ。そう思い立ち、シーザは皮袋を肩に担ぎ上げた。
「あ、待って下さい。出発する前に朝ご飯にしましょう」
それをアリアがおっとりと静止する。いきなり出鼻を挫かれて、シーザは心持目を鋭くしながら、
「そんな暇は無いだろう」
言うのにも、少女の笑顔が崩れる様子はまったく無い。彼女は人差し指を立て、優しく言い聞かせるように言った。
「朝ご飯は一日の元気の源ですよ。食べなきゃダメです」
「そうだぜ〜シーザ。大体出発が遅くなったのはお前が起きるの遅いからだろーがよー」
「せっかく採ってきたものだ。粗末にしていい道理は無いぞ」
「む……」
アリアの言葉に男二人の意見が続く。シーザとしては早く先に進みたかったが、彼女らの意見にも一理ある。
「解った。朝食を終えた後、出発ということにしよう」
結局シーザは三人の意見を尊重した。
(間に合えば……いいんだが)
言い知れぬ焦燥を胸に抱きながら、シーザは大地にその身を下ろした。
×××××
ロマリア大臣クリストフ・ハールステットは、私室の窓際から茫洋と眼下の町並みを見下ろしていた。
(もうすぐだ……)
王座返還式典から五日。既に昨日、エルフの里に向け最終通告を行っていた。
『これより三日以内にノアニールの呪いを解き、一人残らず森を退去、出頭せよ。もしその要求が受け入れられないならば、こちらはロマリア王国軍の総力を行使するに厭わない。これが最後の通告である』
要約すればそのような内容だ。
もちろんエルフは、この要求を呑みはしないだろう。そうであれば今の今まで問題がこじれるはずもない。これはロマリア式の宣戦布告だ。たとえ相手が人外の化け物とはいえ、戦争を始めるためには、流儀というものに従わなければならない。
(あと三日。あと三日で、リエロの無念を晴らすことが出来る)
リエロ・ハールステット。優しく、聡明だった息子。自分にとって唯一の肉親。エルフの女に誑かされ、その命を奪われた――
(必ず、あの化け物どもを根絶やしに……)
……ォン……
その時、クリストフの耳に異質な音が届いた。
「?」
一瞬気のせいかと疑うが、
……ズン……
何かが破裂するような音、それに続く何かが崩れるような音。それらは断続的に、しかもどんどん大きくなっていく。
ガタガタガタッ。微かな振動と共に窓が音を立てた。だが地震ではない。これは、まるで……、
胸に湧き上がる焦燥を抑え、クリストフはすぐさま室外へ出た。城内は不明の事態に騒然としていた。無意識に早足になりながら、通路を慌しく走る兵士の一人を捕まえる。
「何事だ!」
「はっ……いえ、それが私にもさっぱり……」
舌打ちをして、クリストフは再び歩き出した。通路を抜け、階段を下る間にも、城の人間が所狭しとひしめき合っている。ある者は扉の前で怪訝そうに周囲を見やり、ある者は自分と同じように兵士を呼び止め、事態を把握しようと躍起になっている。中央広間まで来たところで、見知った文官がこちらに駆け寄ってきた。
「だ……大臣閣下! た、大変です! え……えええ」
言葉につまり、文官は一つ息を呑む。そうして彼は顔面を蒼白にしながら、震える声で言った。
「エルフが、エルフの奴が襲ってきました!」
「何だと!?」
まったく想定外の事態に、クリストフは声を荒らげる。最終通告の翌日に攻めてくるなど、おまけにあっさりと城壁内への侵入を許すなど、まずありえないはずのことだった。
「数は!? 相手の兵力はどうなっている!」
「それが……」
「どうした、はっきり申せ!」
苛立ちをあらわに問い詰めるクリストフに、文官は信じられないことを口にした。
「一人だけです。エルフはたった一人で攻めてきました……」
「なんたることだ……」
眼前に広がる情景に、クリストフは慄然とした。
ロマリア城下町を南北に分かつメインストリート。そこに今、赤々とした焔が上がっていた。連なる石造りの住宅は焼けただれ、壁が高熱によって溶解している。武器屋であろう商店には大きな風穴が空き、先にあった植樹から炎が上がっていた。
無残な町並みを、鎮火や怪我人の救護、救助に兵士達が慌しく駆けずり回る。その中をクリストフは供を従え、進んだ。整然とした石畳は無残に抉り取られ、その上には真っ黒に炭化したものが打ち捨てられている。近づくと異臭が鼻をついた。脂が焦げる臭い、人間の燃える臭いだ。
「大臣閣下」
低い声は城の方からした。周囲を警戒しながら街の惨状を見やるクリストフ達に向け、一人の男が駆け寄ってくる。長身痩躯の文官――クリストフにとって最も信頼の置ける部下の一人だった。
少し頬のこけた青白い顔をしているが、この男はそれが常だ。それでいて金色の瞳は爛々と強い光を放っている。クリストフがかつて異種族外交官であった頃からの部下。常に冷静沈着で的確な判断を下す、有能な男だった。
「アラストル、陛下はどうなされた」
「ひどく動揺なさっておいででした。攻撃の犯人がエルフだと申し上げましたら、今すぐにでも出兵しろ、とも」
「そうか」
クリストフは内心苦笑した。出兵を支持するのはありがたいが、まだ怪我人の救助や救護も済んでいないというのに。
「閣下、現状の情報をまとめましたので、報告させていただきます」
アラストルはそう言って手元の書類に視線を落とした。襲撃から僅か三時間ほどでよくそれだけの情報を集めたものだと思うが、これだけでも男の有能さを語るに値するものだ。そんな思いを抱きながら、クリストフは重低音の声に耳を傾けた。
彼の報告を要約すると、こういうことになる。
最初にエルフを発見したのは、城門付近にある宿の店主。ロマリア城門前で突然悲鳴が上がり、何事かと駆けつけると、そこには喉を切り裂かれた兵士と、血に染まったナイフを片手にした緑髪の青年――エルフが居た。
「エルフの特徴である緑髪と緑眼、それにとがった耳を、主人を含んだ複数の住民が目撃しています。まず間違いなくエルフの仕業かと」
クリストフは重く肯いた。今の状況で、エルフ以外の存在がこの騒ぎを起こしたとは考えにくい。
エルフは集まった民衆に向けて、攻撃呪文を散発的に放った。街の惨状を見る限り、閃光系呪文――ベギラマと推測されると宮廷魔術師からの報告が上がっている。人々が逃げ惑う中、エルフはメインストリートを駆け抜けながら、住宅、商店、人間問わず、無差別に閃光呪文を放ち続けた。
「被害状況はまだ把握できておりませんが、少なくとも百人が死亡、五百人以上の怪我人、行方不明者が出ております」
アラストルの冷淡な言葉に、思わず歯噛みした。たった一人のエルフによる、たった数時間の攻撃で、ロマリアの街は無残に蹂躙されたのだ。
ロマリア城城門に風穴を開けたのを最後に、エルフは突然姿を消した。ルーラか何かで飛び去ったという目撃情報が入っているが、ともあれようやく事態を把握した騎士団が駆けつけた時には、当のエルフは既に影も形も見当たらなかった。現在兵士に捜索に出させてはいるが、発見の可能性は限りなく低い。跡に残ったのは無残なロマリアの街だけ、ということだ。
クリストフは怒りで気が狂いそうだった。抑えようのない憤激を奥歯で噛み潰し、煮えくり返る憎悪を両手に握り締める。
「大臣閣下……」
報告を終えたアラストルは、控え気味に声をかけてきた。クリストフは激情のこもった眼差しでそれに応える。
「事態の収拾次第、全軍を挙げて出兵する」
震える声で、断言した。
「エルフどもを皆殺しにするのだ!」
×××××
六日目の昼。途中魔物や悪天候に道を阻められながらも、シーザらは何とか予定通りノアニールへと到達した。
町をぐるりと囲う外壁の間、街道の延長線に構えられた門には衛兵の姿が無い。どんな町であっても平時なら、魔物の監視のために何人かの見張りが立てられているはずだが……。
門前に立ったシーザは、駄目で元々と門を押してみるが、やはりびくともしない。グラフトも試すが結果は同じだった。
「誰かいないか!」
門を叩き声を掛けるが、返ってくるのは不気味なほどの静寂。しかしここには、呪いの調査のためロマリアから派遣された兵士や文官、魔法使いがいることは既に調べてある。このまま立っていても埒があかないと、四人は外壁に沿って歩いてみることにした。
程なく、外壁に立てかけるようにして設置された、宿営地らしき建物を見つける。石造りのしっかりとしたもののようだが、町に呪いがかけられたのは今から九年ほど前。僅かながら色あせた印象を受ける。
シーザは木製のドアを軽く三回ノックした。……返事は無い。しばし沈黙の後、もう三回。仕方ない、とシーザがドアノブへ手を伸ばしたところで、扉が遠慮がちに開かれる。
「どちら様で……」
顔を出したのは三十過ぎくらいの男。彼はこちらを見るなり目を丸くした。
「あ、あなたは王様! あ、いえ、勇者様!」
王都からこれだけ離れた場所でも、自分の顔は知られているらしい。こういう場合は手間が省けていい。
呆気に取られる男をよそに、シーザは室内を見回した。男の脇からもう二人ほどの人影が見える。容貌からして一人は宮廷魔術師。一人は警護の兵士。目の前の男は文官か何かだろうか。
「ゆ、勇者様、このようなところに一体どういったご用件でしょうか」
上ずった声を上げる男に、シーザは端的に告げた。
「エルフとその呪いについて、詳しい事情が聞きたい」
「!」
言葉に男は明らかな動揺を見せる。会話を聞きつけたのだろう、奥にいる二人も同じ反応だった。
男は顔を伏せしばし黙考すると、やがて意を決したように言った。
「……解りました。どうぞ、お入り下さい」
相手はロマリアから派遣された人間、もしかしたら大臣あたりから口止めされているかもしれないと思ったが、杞憂に終わったようだ。
文官、兵士、魔法使いと向かい合うように席についたところで、シーザは自分達の目的、既に把握した情報を告げた。ロマリア軍の不穏な動き、エルフとロマリア間の問題、大臣とその息子、夢見るルビー、呪い。こちらの一言一句を、眼前の三人は沈痛な表情で、ただ聞き入っている。
「もう、そんなところまで把握されているなんて、さすが勇者様ですね」
「世辞はいらない。つまりあなた方は、ロマリアが起こそうとしている『戦争』について、認知しているんだな」
「……隠し立てしても無駄ですね。仰るとおり、ロマリアはエルフに戦争を仕掛けようとしています。それも、近日中に」
男の発言にグラフトが驚きの声を上げる。
「近日中だと?」
「ええ、二日前、エルフ側へ最終通告が行われました。期限は明日まで。おそらく、二日後にはロマリア軍は出陣することになるでしょう」
「おいおい。それじゃあもう手遅れじゃねぇか」
イクスが投げやりに言う。確かに一度進攻を始めた軍隊を止めるなど、個人にはまず不可能だ。
「……二日後にロマリアが進行を始めたとして、エルフの里に到達するには最低何日かかる?」
「そうですね……軍部は一度、演習でカザーブの方まで行っています。おそらくルーラで一気にカザーブまで移動して、そこから歩いて進軍するつもりでしょう。そうするとノアニールまで八、九日。エルフの森までは三、四日くらいはかかると思われます」
つまり最終的なタイムリミットは十一から十三日というわけだ。
「なぜ貴方がたは、我々に協力的なのだ?」
解せないといった表情でグラフト。確かにこちらが勇者であるからといって、ロマリア側の人間がここまで協力的であるのは不自然だ。
目の前の三人は、それぞれに自嘲気味な苦笑いを浮かべた。
「それは、私たちはエルフとの戦争なんて望んでいないからです」
壮年の男は口を引き結び、険しい表情で言った。
「私はかれこれ二十年以上、異種族外交官としてエルフ族との交流を続けてきました。彼女らは、気高く、聡明で、温和な種族だ。間違っても争うべき相手じゃない」
エルフ種族は代々女王が統治していると聞く。彼女ら、という表現をしたのは、エルフが女性中心の社会を形成しているからだろう。
「現王国大臣であるクリストフさんや、リエロ君のことも、よく知っています。大臣は……やはり当時からエルフに対する不信はあったようですが、息子のリエロ君は何度もエルフの里へ足を運んで、交流をもとうとしていました」
男はどこか遠くを見るようにして過去を語り始めた。
ロマリアとエルフの間に問題が起きたのは十三年前。その時に派遣された外交官の長がクリストフであった。彼らは拠点をノアニールに置き、移動魔法で幾度もエルフの里へ赴いたという。リエロとアンの出会いもその頃だったようだ。
「二人が恋仲になったのはいつのことか解りませんが、それぞれの両親にそれを告白したのは出会ってから三年後でした。お察しの通り、猛反対です。エルフの方は解りませんが、大臣はもう……狂ったように激怒していました」
リエロとアンは双方の両親の元へ出向き、幾度と無く説得を試みた。しかし結局了解を得ることは叶わず、ついに駆け落ちを決意した。
「ルビーを里から持ち出したのはアンの方です。彼女はルビーの番をしていたエルフを呪文で眠らせ、里の出口でリエロと落ち合わせ、そのまま西にある洞窟へと姿を消したそうです」
「洞窟?」
「はい。エルフの里から少し離れた場所にある天然洞窟に二人が入っていったのを、エルフと人間、双方が目撃していたんです」
二人がそのまま行方知れずになったのなら、ルビーは路銀の足しにでもしてどこぞで平穏に暮らしていると考えるのが妥当だ。つまり二人には全く別の意思を持っていたということになる。
「二人はまるで、わざと人目に付くような行動をとっていたと、目撃した兵士から聞いています。ともかくその知らせを受けて、クリストフさんはすぐさま捜索に走りました。もちろんエルフの方もです。そして――」
「二人の遺体が見つかった、か?」
先読みして言うのに、男は首を横に振った。
「何も見つからなかったんです。リエロも、アンも、夢見るルビーも」
「何も? そんなことが……」
「捜索が入る前に洞窟を抜け出た可能性は?」
確認のために訪ねるシーザに、男はまたも首を振る。
「たまたま付近にいてそれを目撃したエルフが、出入口を見張っていました。魔法を使えば感知できたでしょうから、まず考えられません」
つまりは、生死すら不明ということだ。
「じゃあ、煙のように消えちまったってのか?」
「解りません……。ただ間違いないのは、それ以降人間とエルフとの関係は悪化の一途を辿ったということです」
リエロ、アン、ルビー。三つのうちいずれかでも見つかっていれば、状況はまだマシだったかもしれない。しかし現実は、クリストフはアンの所為でリエロを失ったと思い、女王は人間によって娘とルビーを失ったと考えた。結果エルフはノアニールに呪いを掛け、ロマリアはエルフを根絶やしにしようと動き出している。
「私は……止められるものならこの戦いを止めたい。勇者様、力になってはくれませんか」
言葉を切って、男はすがりつくような眼差しを向けてくる。それにシーザは泰然として、
「もとより、そのつもりだ」
それに文官、兵士、魔法使いの三人は「ありがとうございます」と言って深々と頭を下げた。まるでもう、問題解決は確実だとでもいうように。
「あの、呪いというのはどういったものなんですか?」
アリアが遠慮がちに訊いた。それに、それまで黙っていた魔法使いの男が席を立つ。
「……実際に見たほうが早いでしょう。皆さん、こちらへ」
外壁に沿って建てられた詰所には、直接壁の内側へと通じる扉があった。もともと扉だけがあった所に建物を外付けしたのかもしれない。中へと入ったシーザ達は、街の様子を見て驚愕の声を上げた。
「これは……」
一見なんでもない街並み。散歩中であろう老人。路上を走る子供たち。翼を広げる鳥の群れ。しかしそれらは、まるで一枚の絵画のようにその場で動きを止めていた。
「眠って、いるんですか?」
アリアの言葉に、シーザは一人の男――片足を上げたまま彫像のように固まった男に手を触れてみる。すると、まるで岩肌を撫でたような感触が返ってきた。試しに手首をとってみるが、脈動は感じられない。
「眠っているわけじゃない。かといって死んでいるわけでもない」
もし眠ったまま何年もこの場に立っていたのなら、肉体がもつわけがない。それは死んでいる場合も一緒だ。
「これが、エルフのかけた呪いです」
魔法使いが重々しく口を開く。シーザは男に目線を合わせ、
「時の停滞。後退と前進を繰り返すことで街全体の時流を停滞させている。そうだな?」
「さすが勇者殿、ご名答です。ロマリア宮廷魔術師会でも同様の見解に達しました。恐らくラナルータに近い性質の魔法かと思われます」
魔法の中には時間の流れを操る、というものも存在する。ラナルータは一定領域の時間を一時的に後退させるというもので、始祖の賢者ガルナは最大で十二時間、つまり昼夜を逆転させたこともあるという。
この呪い――魔法は、刹那の時を後退させ、同じだけ時間を前進させた後再び後退という手順を繰り返すことで、あたかも時が止まったかのようにしているのだろう。
「確かにこれは――ある意味温和な手段ではあるな」
少なくとも被害に遭う人間らは、その間何らの苦痛を感じることもない。もっとも、長い時間を世界から置き去りにされることを思えば、ある意味では残酷なのかもしれないが。
「……呪いは、現在の魔法学ではとても手に負えません。解くことができるのは、呪いを掛けたエルフ達だけです」
「だろうな」
「ルビーを返せば、呪いは解いてもらえるんですよね?」
「そう明言されています。ですが……」
「既に無くなって十年も経っている。見つかるものなら見つかっているだろう」
現実的なグラフトの意見。
「確かにルビーが見つかる可能性は限りなく低い。とすれば……」
口元に手をあて考え込むシーザに、宮廷魔術師が控えめに声を掛けた。
「この場にあまり長く居ると、我々まで呪いの影響を受けることになります。皆さん、一旦戻りましょう」
言葉に従い、ひとまず詰所の方まで引き返す。
再び机を囲ったところで、
バンッ。唐突にドアが勢いよく開かれた。入ってきたのは身なりからしてロマリアの衛兵だ。悄然とした様子で顔は蒼白としている。彼は唇を震わせ、言った。
「エルフが……ロマリアに攻めてきた」
「な……に」
男は語った。昨日、王都で起きた事件を。
突如表れた一人のエルフ。魔法に襲われ、炎を上げる街。無抵抗に、逃げ惑って、焼き殺された民衆。そして、怒りと憎しみを燃え上がらせる王国騎士団。
ロマリアは既に今日、進軍を開始した。その言葉に、文官が信じられないというように怒声を上げた。
「そんな、そんな馬鹿なことがあるか! 彼女たちが、そんな、そんな……」
「俺はこの目で見たんだ! エルフが魔法を使うのを! 目の前でっ……人が焼かれるのを!」
悲痛な叫びに、文官は返す言葉を失う。
一転、しんと静まり返った場。イクスが耳元で囁いてきた。
「どうする気だ、シーザ」
「………」
「もう戦争は始まっちまった。エルフも本格的に手を出した。俺らに出来ることなんて何も無いぜ」
正論だ。もう何もできるはずが無い。この状況に偽りが無いのなら。
「これからエルフの里へ向かう」
シーザは全員に聞こえるような声で、はっきりと告げた。
「はあ? 正気かよ。エルフは既にロマリアと全面戦争の構えなんだぜ! のこのこ近づいて行ったりなんかしたら、よくて拘禁。悪くてその場で殺されるだろ」
「その襲撃が本当にエルフのものなら、な」
淡々とした一言に、場は騒然とした。
「な、何を言っているんだ! 俺は確かにエルフを……」
「見たのはエルフの姿をした何者か、だろう」
いきり立つ兵士の言葉をシーザは片手で遮り、
「そもそもエルフが全面対決の姿勢を固めたのなら、たった一人を真正面から潜入させて、市街地を無差別に攻撃するという行動にはたいした意味が無い。やるなら複数、それも王城や軍事施設を標的にするはずだ」
「言ってることは解るけどよ、だったらそのエルフもどきは何なんだよ」
「魔族……だと俺は見ている」
「アリアが感知したという奴か」
グラフト、イクス、アリアの三人が揃って顔をしかめる。文官や兵士らにとっては未知の単語だろうが、今は説明をする時間も惜しい。シーザは肯き、続けた。
「ああ。魔族が人の姿で宮廷に忍び込んでいるのならば、同じようにエルフの姿で王都を襲撃することも可能だろう」
「しかしそれに何の意味がある?」
「確かなことは言えないが、恐らく一連の騒動には裏で糸を引いている存在がいる。この襲撃もロマリアの戦意を高揚させることが狙いだとすれば……目的はまさしくエルフと人間との戦争、ということになるな」
バラモス配下であろう魔族の目的。それはそのままバラモスの目的であると言っていいだろう。
ではバラモスの目的とは何か。
まだその行動の末端にしか触れていない現時点では想像しかできないが、少なくともそれが世界に有益なものであろうはずがない。間接的にエルフと人間の戦争を起こさせるというのも、方法が妙にまどろっこしいことが気にかかるものの、有りうる話だ。
「で、黒幕がいたとしてどうすんだ。そいつをぶち倒しに行くわけか?」
イクスの投げやりな言葉。もともと何事に対しても本気で接していないような雰囲気の男ではあるが、ことこの問題に対しては格別にその傾向が強い。それに僅かな疑念を抱きながらも、シーザは話を続けた。
「既に軍隊の中に紛れ込んでしまっているだろう。その中からたった一人に化けている魔族を見つけ出すのは難しい。それにたとえ正体を暴いたところで――戦は止まらない」
その魔族が他の者達を残らず操っている――という状況なら解決は容易い。しかしこれはあくまで人の動きなのだ。魔族が関与していたとして、それはただそうなるように誘導したというだけに過ぎない。
イクスはあてつけがましく、深々と溜息をつく。
「そんで、エルフの里へ行ってどうしようって? 白旗でも揚げてもらうか?」
「そうだ」
「おっ前馬鹿だろ!? ンな簡単に事が運ぶならそもそもこんな話にはなんねーっつの!」
「現時点ではそれが一番現実的だ」
イクスの抗議をにべもなく退ける。彼の言うことが正論だと解ってはいるが、かといってこのまま何もしなければ惨事は目の前だ。
「時は一刻を争う。すぐに出発しよう」
有無を言わせぬ言葉で締めくくり、シーザは席を立った。
ノアニールから西へ三日、シーザ達はエルフの里があるという森林へ足を踏み入れた。
始終周囲を深い霧が覆っていることから白の森、迷いの森と呼ばれている。かつて数千年前には世界のあらゆる森にエルフが住まい、森の守護者として人と共存していた時代もあったというが、今となってはこの『白の森』とサマンオサ南の『黒の森』、そして世界最大規模の大森林『世界樹の森』にのみ、存在しているという。
森へと入ってから、それまでひっきりなしに襲ってきた魔物の姿がぱったりと途絶える。どうやらこの森も、賢者ナジミと同質の結界が張られているらしい。エルフの魔力をもってすれば森全体を覆うことなど造作もないことだろう。
「また、か」
幹に太いロープの巻かれた大樹。眼前のそれを見て、先頭のシーザは足を止めた。
「うえ〜まじかよ」
「これで三度目、ですね……」
そう、森に入ってこの場所を通るのはこれで三回目だった。二度目の時点でシーザが気付き、目印のためロープをくくりつけてみれば、案の定だ。
「あ〜あ、つーかーれーたー」
これ見よがしなイクスの愚痴に、シーザは無言で視線をやった。彼は肩をすくめて、
「森に入って今日で四日目。計算上では明日にでもロマリア軍はノアニール到着だってのに、エルフの里は影も形も見つからず。どうするよ、おい」
「………」
イクスの言う通り、シーザらは既に四日間も森をさまよっている。
「森を真っ直ぐ西に進めば、すぐに里へたどり着くと言っていたはずだが……」
グラフトが思慮深げに言う。ノアニールに駐留していた異種族外交官からの情報だ。エルフが呪いを掛けるまでは幾度も里への行き来をしていたのだから、誤情報とも思えないが。
「ホントーにちゃんと西に進んでんのか? コンパス使えないんだろ」
迷いの森という名前に違わず、ここではコンパスが使い物にならなかった。シーザは軽く首を振って、
「俺は今まで通った道を全て記憶している」
「じゃあ何で同じ所に三度も出るんだよ。矛盾してんじゃねーか」
「その通りだ。これは、無意識の内に方向感覚が狂わせられていると考えるべきだな」
そもそもこの森には道らしい道が無いうえ、五歩先が見えないほどの霧で覆われている。加えてコンパスが使えないとなれば、常人ならば数時間で遭難するだろう。
しかしシーザは天性の記憶力で、森に入ってから今までの道程を完全に記憶している。それで尚、三度も同じ場所に戻ってしまうということは、
「何らかの魔法、恐らくエルフが侵入者を惑わすような仕掛けを――」
「ご名答。エルフ女王イルフェリナ・スプライテスの魔法によるものさ。森への侵入者を幻惑する、マヌーサの呪文に近い性質といえば理解できるだろうか」
突如割って入った第三者の声。同時に霧の中、先程まで何も無かったはずの前方に人影が浮き上がる。
(なんだ……?)
言い知れぬ既視感を覚えて、シーザは無意識に剣の柄に手を掛けた。
「何者だ」
「何者か、つまり私の呼称を聞いているわけか。そうだな、それではシャンプとでも名乗っておくとしようか」
そう言って霧の中から歩み出て来たのは――外見的特徴を見る限り――人間だった。
まず目を惹くのは、地面に着きそうなほど長い藍色の髪。それらをボロボロに擦り切れたローブに、まるで樹木を這う蔓のように巻きつけている。薄い笑みが浮かべられた顔は色を失くしたように白い。
向けられた銀色の瞳は、シーザが今までに見たことの無い視線だった。こちらを嘲笑うような、心底面白がっているような、しかし何の関心も無いようであり、あるいは自分の全てを込めている、混沌とした眼差し。シーザはそれに抗うよう鋭く見返しながら、柄を握る手に力を込める。
「偽名だと暴露しているようなものだな」
「名前とは所詮、個を分類するための記号に過ぎない。私と君との間ではこれで充分ではないかな」
「もう一度聞く、何者だ」
しかしシャンプはまるで聞いていないように、シーザの方をまじまじと見て、呟いた。
「君が今回のコリドラスか」
次の瞬間、シーザは剣を抜き放った。
「シーザ!?」
突然の行動に、グラフトが驚きの声を上げる。それに構わずシーザは刃を相手の首筋に突きつける。
「お前、あの時の……」
「いかにも。先日、君の意識に介入させてもらった者だ。残念ながら深層に到達する前に締め出されてしまったがね。君は随分と、自分の胸の内を知られるのが嫌いなようだ」
喉下に剣を向けられながら、しかしシャンプは平然と佇み、こちら――シーザの方を見つめている。
「ふむ、これはこれは、何とも聖性の弱いことだ。ロトどころかオルテガにすら遠く及ばない。感情を喪失している――いや、封鎖しているのか。しかし反面、戦闘能力は飛びぬけて高い、と。なかなかに、面白い」
口元に手をやってくつくつと笑う。射殺すようなシーザの視線もどこ吹く風だ。
「お前は何者だ。何を知っている。何が目的だ」
「それらの問いには一つの回答で事足りる」
シャンプは芝居がかった仕草で両手を広げた。
「私は傍観者だ。世界を舞台にした神々の演目を眺める、たった一人の観客。劇のあらましを知り、また裏を知ることを望む者」
「何を……」
理解不能の表現。暗示的な言い回し。だが無視できない、何かの核心をかぐわせる言葉。
「だが私は、どちらかと言えば能動的な観客でね。より面白い劇を観るためなら、舞台に上がることもいとわない」
そうしてシャンプはすっと右手を掲げた。すると右、シーザから見て左方向の霧が、何かに吸い取られるように、見る見るうちに消え去っていく。
「エルフの里は向こうだ。健闘を祈るよ」
平然と告げた。シーザは視線だけ左にやると、濃霧に穴でも開けたような空漠の先に、あろうことか人里らしきものが広がっている。
「どういうつもりだ」
「先程言ったはずだがね。私はより面白い演目を望む。この舞台、君達が上がった方が楽しいものになりそうだ」
シャンプはすっと腰を折り、優雅に礼をしてみせた。
「では、また会おう」
その言葉を最後に、傍観者の姿はすっと風景に溶け、消え失せた。
四人は絶句したまま、ただ前方の空間、先程までシャンプの立っていた場所を見つめていた。しばし場を、森のざわめきだけが支配する。
やがてイクスが唖然として口を開いた。
「なん、だったんだ、今の奴は」
「なんだかよく解らないことを仰っていましたね……。こりどらすとか、ろととか。それに」
「オルテガ殿のことも言っていた。何なんだ? 口振りからして、シーザ。お前に関係したことのようだったが」
口々に言った後、三人の視線は沈黙を保つシーザに集まる。シーザはそれらに背中を向けて、口早に告げた。
「俺にも解らない。それに今は、そんなことに構っていられる時間は無い」
あまりにも不可解な点が多すぎる。こういう場合、無闇に憶測を交わしても意味が無い。
それに、あまり考えたくない。そんな思いに囚われる自分に驚きながら、シーザは昂ぶっていた気を沈めた。
今は考える時じゃない。冷静にそう判断して、霧の晴れた場所、エルフの里らしき場所へ足を向けた。
「………」
三人もそれ以上は追及せず、黙って後についてくる。シャンプの言が信用できるのかは定かでないが、現状では他に選べる道が無い。最悪、罠である覚悟も決めて、シーザは先頭を進んだ。
「止まりなさい」
あと数歩というところで静止の声が響く。と同時、樹上から幾つもの影が飛び降りてきた。
言葉に従い足を止める。遮るように降り立ったのは、緑髪緑眼にとがった耳――三人のエルフだった。どうやら欺瞞では無かったらしい。
エルフ達はいずれも男だった。武装こそしていないが、明らかに敵意のこもった眼差しを向けてきている。周囲の気配を探ってみると、案の定、囲まれているようだった。左右にそれぞれ四人ずつ、背後に五人、といったところだろうか。
「ここから先は我らエルフ族の領域。人の子よ、去りなさい。私たちは無益な争いは望みません」
まだ若い、外見的には二十歳そこらのエルフが告げた。口調こそ穏便だが、こちらが毛ほどでも敵意を表せば即座に襲い掛かってくることだろう。そう判断して、シーザは剣を地面に放った。
「争いを望まないのはこちらも同じです。我々は、この戦争を止めに来ました。どうか女王にお目通り願いたい」
そう言って膝を折り、頭を下げる。言わずとも状況を察してくれたらしく、後ろで仲間達もそれにならった。
予想外の行動だったのか、エルフ達は戸惑っているようだった。しばし何やら話し合った後、今度は別のエルフが些か強い口調で、
「戦を仕掛けてきたのは貴様ら、人間の方だろう。それを止めに来たと言われて、簡単に信用しろと言うのか」
「仕掛けたのはロマリア国軍、私達はアリアハンの人間です」
「そんな道理が……」
「何なら武装解除のうえ、縛り上げていただいても構いません。どうか、女王へお目通りを」
背後でイクスがぎょっとするのが解ったが、気付かないフリをした。ここで下手に出れば、全ての望みが絶たれかねない。シーザは微動だにせず、ただ事の行く先を静観する。
すると突然、どこからか女の声がした。
『構いません。お通ししなさい』
森全体に響き渡るような、しかし静かで淑やかな声音。それを聞いたエルフの青年は天を仰いだ。
「女王様! しかし……」
『彼らに敵意はありません。それにいざとなればしかるべき処置を取ればいいだけのこと。さあ、お通ししなさい』
どうやらこれはエルフ女王本人の声らしい。原理は不明だが、これもエルフの魔力が成せる技なのか。ともあれ、どうにかこの場は切り抜けられそうだった。
「お許しが出ました。但し、武器は預からせていただきます」
しかし流石に、目の前のエルフ達は警戒を解いていなかった。当然、従う。シーザは剣の他、腰と両手首に仕込んだナイフも差し出した。隠し武器など見つかったら即座に殺される。最悪の場合ここから逃げ出さなくてはならないことを考えると、少々心もとないが。
武装解除を確認した後、一人のエルフが里の奥へと手を差し伸べた。
「こちらへ」
肯いて、シーザ達はエルフの里へ入った。前後左右をエルフ達に囲まれて進む姿はまるで連行されているようだが、この際仕方が無い。
里は見る限り、ちょっとした村のような風景だった。違うのはそれが森の只中に存在することで、里との境界が判らないほど樹木が群生している。住居であろう建物はやはり木造のものが多いが、中には石造りもあった。こうして見ると、ほとんど人間の村と変わらないことが解る。
住人も当然エルフばかりだ。彼ら――彼女らは里への訪問者へ向け、ある者は忌諱の視線を、ある者は恐怖の表情を、そしてある者は露骨な敵意を向けてくる。しかしそれは一部で、大半は単純に戸惑っているという様子だった。そのことにシーザは少しだけ安堵する。
やがて一行は里の中枢らしき場所へとたどり着いた。
木造の神殿、という印象の建物だった。これがおそらく女王の城なのだろうが、森の中にあるだけあってかなり質素な出来だ。内部も人間の城のように華美な装飾は無く、しかしどこか慎ましい優美さを感じさせる造りになっている。
「連れて参りました」
そう言って先導していたエルフは脇へ退いた。
シーザは目の動きだけで奥、少し高くなった場所にしつらえられた玉座を見上げる。そこに優雅に腰掛けたのは、傍目にも他のエルフより高い地位にあると思わせる一人の女性。
アリアハンやロマリアでは見たことのない、独特の紋様が描かれたドレスをまとい、額には宝石を散りばめたティアラ。長い緑の髪は陽に透ける青葉のように美しい。見た目だけならまだ二十代でも通用しそうだが、エルフの寿命は人の何倍もあるというから、実際のところは解らない。
一歩一歩ゆっくりとシーザは歩を運び、ひざまずく。後で仲間達がそれぞれかしずいた所で、女性は静かに口を開く。
「私は白の森の女王、イルフェリナ・スプライテス。人間よ、名を」
シーザは顔を上げる。女王イルフェリナの面には何の感情も浮かんでいない――否、何の感情も読み取れなかった。
「アリアハン国が勇者、シーザ・クラウソスと申します」
「では、勇者シーザよ、あなたはこの戦を止めに来たと聞きましたが」
「はい」
「それは如何様にして?」
女王の目線を真向から見返しながら、シーザは端的に告げた。
「あなた方エルフに、この森から退いていただきたい」
言葉に、女王の脇に立っていたエルフの――恐らくは宰相のようなポストに居るであろう老女たちが怒気を上げた。
「な、なんと勝手なことを!」
「人間無勢が、何年も我が同胞を迫害しておいて、今度は住処まで明け渡せというのか!」
一転、場は騒然とする。しかしイルフェリナは眉一つ動かすことなく、
「静まりなさい」
たった一言で、喧騒は消滅した。それに満足するよう肯くと、女王は再び静かな視線を向けてくる。
「あなたは私達に森を捨て、どこで生きろと言うのです?」
「ここから東にある世界樹の森には、世界で最も多くエルフが暮らしていると聞きます。そこへ移住することはかないませんか?」
エルフについて、人間が知っていることは存外少ない。この情報は旅立つ前、賢者ナジミから教わったことだ。
「よくそんなことをご存知ですね。ですがそもそもこの森は我がエルフ族が代々守ってきた場所。なぜ人間の勝手で明け渡さなければならないのでしょう」
「今、人とエルフが争えば、双方に多大な犠牲者が出ます。それはエルフ族にとって手痛い打撃となるのではありませんか」
「確かにエルフ族の絶対数は多くありません。しかし我らが本気を出せば、たとえロマリアが全軍で迫ってきても打ち負かす自信はありますよ」
平然と言う。確かにエルフ族の魔力は、一つの街の時間を停滞させられるほどだ。いくらロマリアが事前に準備を重ねたといっても、エルフが手段を選ばなくなれば、分が悪いかもしれない。
が、
「ロマリアを滅ぼしたとて、今度は人間全てを敵に回すだけです」
たとえ非がロマリアにあったとしても、エルフ族が人間の国を滅ぼしたとなれば、当然他の国も黙ってはいなくなる。そうなれば後は人対エルフの終りの無い殺し合いにもつれ込んでいくことになるだろう。
女王もさもありなんと肯いて、
「そうでしょうね。ですが我らにも誇りはあります。一方的な侮辱を受けて、愛する娘と一族の至宝まで奪われて。それでも黙って引き下がれるほど、肝要ではありません」
「ルビーを持ち出したのは娘さんの方だと聞きましたが」
その言葉に、初めてイルフェリナの表情が強張った。
「……アンは、そそのかされたのです。あの子は、ルビーが里にとってどれだけ大切か知っている。きっと人間に誑かされて、騙されてやったに決まっています」
先程まで理路整然としていたのが、ことこの問題に関しては発言が急に感情的になっている。それだけ娘を大事に思っていたのか、それともそれだけ人間への不信が深いのか。
「それに夢見るルビーはエルフ族の象徴。ルビーを持たない女王など、世界樹のエルフ達は認めはしないでしょう」
「ではルビーさえあれば、移住していただけるのですね」
畳み掛けるようなシーザの言に、イルフェリナは僅かに顔をしかめた。
「どういう意味ですか」
「我々が夢見るルビーを見つけ出します」
「何を言うかと思えば……。ルビーは十年前から、エルフ族の総力を掛けて探しているのに、未だ見つからないものなのですよ。今更どこを探そうというのです」
「二人が最後に向かったという洞窟、ルビーはそこにある可能性が高い」
「既に隅々まで調査済みです。あなた方が二、三日探したところで出てくるわけがないでしょう」
「やってみなければ分かりません」
執拗に食い下がるシーザに、女王は呆れたように言った。
「……なぜそんなにも、この問題に関わろうとするのですか? あなたには関係の無いことでしょうに」
なぜ、この問題に関わるのか。なぜ、争いを止めたいのか。
答えは自分の中で、とうの昔に出ている。
「それが、私の存在理由だからです」
それがただの独りよがりだとしても、それでも自分は歩みをやめることは出来ない。何故なら、そうでなければ――
長い沈黙。イルフェリナは重い口を開いた。
「――良いでしょう。もし今から三日以内に、夢見るルビーを見つけ出すことが出来たなら、あなたの要求を受け入れましょう」
シーザはすっくと立ち上がり、恭しく礼をする。
「勝手な言い分を聞いていただき、ありがとうございます」
「構いません。どの道結果は同じでしょうから」
「必ず、見つけます」
根拠も何も無く断言して、シーザはエルフの王に背を向けた。
期限はあと、三日。
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