一章 鳥が羽ばたく
―巣立ちの儀式―
そこは言わば、意識の世界だった。
眼識、鼻識、耳識、舌識、身識。五識のいずれも及ばない世界。だから、今感じている妙な浮遊感も、聞こえる声も、それらは五感を介さない、意識によって感じとったものだ。
だからこの声は声ではなく、意識の中に浮かんだ言葉だ。
――シーザ……シーザ……私の声が聞こえますね
(ああ。聞こえる)
その言葉はやはり声ではなかったが、しかし女性が発したものだと解った。解っていた。もう何度と無く聴いた言葉だ。
――今日は貴方の旅立ちの日です
(自分で決めたことだ。言われずとも知っている)
うんざりと、心の中で呟く。
言葉の主は続けた。それが決まり事であるように。あるいは、こちらの声が届いていないかのように。
――貴方はこれから、旅の道程で様々な苦難と出会うことでしょう
(だろうな)
――ですが、私はここから貴方の無事を願うことしか出来ません
(当てにはしていないさ)
――六つの
宝珠
を集め、聖なる祭壇へと掲ぐ時、魔王への道が開かれるでしょう
(それも何度も聞いた。助言をするなら、もう少し具体的に言って欲しいものだな)
――勇者シーザに精霊神ルビスの祝福を
その言葉と共に、意識が眩い光につつまれる。
シーザ……シーザ……。
(何だ? まだ何かあるのか?)
起きなさい。シーザ。
(人の安眠を妨害するな)
今日は貴方の十六歳の誕生日。
(知ってる)
王様の所へご挨拶に行く日でしょう。
(面倒なことだが)
……シーザ。いい加減に起きなさい。約束の時間に間に合わないわよ。
(………)
シーザ!
気が付くとそれはいつの間にか肉声に変わっていた。女性の声――母親の声だ。
気だるい体を何とか起き上がらせる。強い光に目をしかめながら声の主を探すと、ベッドの脇で母親が微笑んでいた。
「おはよう。シーザ」
「――ああ、おはよう。母さん」
急に体を起こしたためにめまいがする。朝はいつもこうだ。血の巡りが悪いのか、血そのものが薄いのかは解らないが、とにかく自分は朝にすこぶる弱い。
(これから長旅に出るというのに……情けないことだ)
部屋を見回す。寝る前とこれといって変わったことは無い。少し手広い部屋の中に、ベッド、箪笥、机がそれぞれ一つずつ。机の傍には大きな本棚が二つ。それぞれぎっしりと本が詰まっている。十六年間で使い古された机にも、やはり本が積んであった。ベッド近くの窓は開かれ、そこから陽光と春風が吹き込んでくる。
「着替えたら下りてらっしゃい。朝ご飯、出来てるわよ」
それだけ言って、部屋を出た。いつもと変わらぬ笑顔で。
(息子が死地へ旅立つというのに、だ)
母親、クレアは息子の自分から見ても、気丈な人間だと思う。決して人前で涙を見せない。夫が死んだと聞いた時も。息子が旅立つ今も。本当は誰より悲しんでいるのに、だ。
そんな気遣いが嬉しくもあり、悲しくもあった。
「………」
完全にベッドから抜け出る。窓から外の様子を眺めた。二階であるため外の様子がよく解る。太陽の位置からして、まだ早朝だろう。謁見の時刻まではまだ随分とある。起きるには早い――もっとも昨夜は早めに床についたため、睡眠不足というわけではないのだが。
起きたものは仕方ない。諦めて着替えることにする。
鈍色のシャツの上に、軽くて丈夫な生地で仕立てた空色の上着。膝近くまで届くそれをシャツと同色のズボンの上に垂らし、太いベルトで締める。頑丈な黒色のブーツは耐久、耐水、耐熱性が高い。どれもこの日のため、この旅のために揃えたものだ。
着替え終わると、一階に下りて裏口から外へ。裏庭の井戸で水を汲み、顔を洗う。それだけでかなり目が冴えた。桶の水面に映るのは、ボサボサに伸びた黒髪と、同色の瞳を持つ自分の顔。
その顔を布で拭い、再び家に入った。
「おはよう。シズ」
部屋に入るなり、声がかかる。この家のもう一人の住人、祖父の声だ。
祖父、ルーク・クラウソスは、若りし頃冒険者として名を馳せていたらしく、既に七十を越える老齢とは思えないほど、逞しい気風を持っている。普段見せる顔こそ温和な老人だが、その体から発せられる覇気は、並みの戦士では容易く射竦めさせられてしまうだろう。
その眼差しに萎縮したというわけではないが、シーザはただ、挨拶だけ返し席に着く。
食卓にいるのは母親、祖父、そして自分のみ。三人は他愛も無い会話をしつつ、朝食を口に運ぶ。それはいつもと変わらぬ風景のように思えた。が、長年付き合っているシーザは、二人が意識してそうしていることに気付いていた。
やがて朝食が片付き、謁見の時間が迫る。母は祖父と目配せすると、意を決したように、改めてこちらを見据えた。
「ついにこの日がきたのね。あなたが旅立つ日が」
いつもと変わらぬ笑顔。しかし悲しくない筈はないのだ。夫を亡くした道へ、今度は息子が進もうというのだから。
「大丈夫じゃ。お前ならやり遂げられる」
祖父が口を開く。その眼差しは相手を萎縮させるものではなく、こちらを激励する力強い視線だった。
「お前はわしの自慢の孫じゃ。お前なら、オルテガが成し遂げられなかった願いもきっと叶えられる」
「行ってらっしゃい。シーザ」
母親から剣――鋼製の剣を受け取る。もうすっかり馴染んだその重みに、改めて旅の始まりを実感する。受け取ったそれを剣帯に通して背に掛け、胸元で留めると、盾を左腕に装備し、青白色の外套を羽織った。そして旅荷物を詰め込んだ皮袋を担ぐ。
その姿を、母親はどこか遠くを見るように見つめていた。旅装束に包まれたその姿に、夫の面影を感じたのだろうか。
それにシーザは敢えて気付かない振りをして、家の扉を開く。
一度振り返り、言った。
「心配しなくとも、俺は死なない。俺は必ず帰ってくる。約束するよ」
それは気休めでしかなかったが、それでも、言っておかねばならないような気がした。
×××××
アリアハン王国。
それは、世界史上で最も有名な国であり、最も繁栄した国であった。
今から三四一年前、アリアハン王国国王ゼフィリア三世は、その強大な国力と卓越した外交能力により、世界各国と同盟関係を結び、事実上の世界統一を果たす。それを紀元に世界暦が制定され、各国の異文化交流が活発化し、言語、通貨の統一が進んだ。その後、突然のネクロゴンド侵攻による世界大戦が勃発するまでの、二百五十年間に渡る平和を築く。大戦後は国力の低下に伴って世界統一国としての力は失ったが、世界にアリアハンの名を知らぬ者はいないし、アリアハンの国民は今もそれを誇りとして生きている。
(そう。それこそがアリアハンの誇りであり、私――ゼフィリア・クロクス・アリアハンが守るべき歴史だ……)
その歴史を揺るがす事件が起きたのが、今から十八年前の世界暦三二三年。あまりに常識外れな出来事に、当時国王に就いたばかりだった自分は、驚愕で声を上げることもできなかった。
ネクロゴンド帝国が滅亡したというのだから。
大戦後も軍事の発展に力を注ぎ、世界最大脅威とされていたネクロゴンド帝国が、一夜にして滅んだというのである。悪い冗談だと思うのが正常な反応だ。
しかし同年、今度はアリアハンと、魔法大国と呼ばれるサマンオサが、同時に魔物の軍勢に襲われる。そのあまりの激しさに、両国は一時、滅亡寸前まで追い込まれることとなる。
それを救った者達こそ、後に勇者と呼ばれることとなったアリアハンのオルテガと、サマンオサのサイモンである。彼等の活躍によって国の滅亡を免れた両国は、それと同時に魔王バラモスの存在を知ることとなる。
その魔王討伐を、救国の英雄が命じられたのは至極自然な成り行きだった。世界中の希望を受け、二人の勇者はそれぞれ別々に、バラモス討伐へと旅立って行った。
(そして、二つの希望は潰えることとなった……。オルテガ、サイモンの亡き世界に、希望など残されていないと、そう思っていた)
八年前、あの少年の言葉を耳にするまでは。
アリアハン国王ゼフィリア十三世は、玉座に深々と座し、その時を待っていた。約束の時間まであと僅かだ。自分の座する玉座から正面の扉まで真っ直ぐに伸びる絨毯の両脇には、十数人の騎士が直立不動で並んでいる。騎士達はいずれもアリアハンにおける武勇の士であったが、今は期待と緊張の入り混じったような複雑な表情を浮かべていた。王座の斜め前方に立つ大臣も、似たような表情だった。王である自分でさえ、冷静である自信は無い。
それは謁見の間にいる人間だけではないだろう。今日が如何な日であるか、知らぬ者などこのアリアハンにはいない。国の誰もが今日という日を待ちわびていた筈だ。本人たっての希望で無ければ、国を挙げての壮大な出立式典を行うところだ。
どれくらい経っただろうか。唐突に正面の扉が開かれた。入室してきたのは――若い兵士だった。兵士は眼前で跪き、報告を述べる。大方の察しはついたが。
「勇者殿がお出でになりました」
場に緊張が走る。思わず、玉座に掛ける手に力がこもった。八年間で、あの少年はどのような男となったのか……。
扉が静かな音を立て、開かれた。謁見の間にある全ての視線が注がれる。
入ってきたのは少年だった。否、今日で成人を向かえた、十六歳の青年だ。
年齢に見合った身長に、少々痩せ気味に見える身体。整った目鼻立ちは母親譲りか。しかし、その全身より発せられる覇気が、青年が外見通りの優男では無いことを主張している。
男は注がれる視線に臆する様子なく、淡々と歩み、跪く。その姿は八年前に比べて、幾分大きく、逞しくなっていた。が、
「シーザ・クラウソス。参りました」
声変わりしたばかりの、低い、それでいてよく通る声音が響く。それと共に向けられた瞳は、あの時と全く変わっていなかった。
あの時の様子は、八年経った今でも鮮明に思い出せる。オルテガの悲報が届いた、世界の終わりを確信し、そして希望を見出したあの日を。思わず懐古の情に耽る思考を、再び目の前の勇者へ引き戻した。
「よくぞ参った」
男の瞳を見つめ返す。漆黒の双眸に宿るのは、静かだが強い意志。その威風は、十六歳になったばかりとはとても思えない、堂々としたものだった。
「オルテガが子、シーザよ。八年前のお主の言葉、オルテガの遺志を継ぎたいという願い、確かに聞き届けた」
一瞬、男の表情が変わったかに見えた。しかし、改めて見やった時にはやはり無表情だった。気のせいだっただろうか?
その思慮を押し留めると、ゼフィリアは、自分でも途方もないと思える命を下した。
「ゼフィリア・クロクス・アリアハンの名の下に命じる。シーザよ。魔王バラモスを倒してまいれ!」
それは一人の人間に命じるには、あまりに荷の重いものだった。しかし、他に術が無いのだ。事実、アリアハンの騎士団で敵わなかった魔物の群れを退けたのは、オルテガというたった一人の男だったのだから。
シーザはその言葉に表情を変えることなく、
「はっ。必ずやこの手で、魔王バラモスを討ち滅ぼします」
何とも簡単に言った。その顔には、なんら気負う物など無いかのようにただ無表情を保っている。
(若さ故の自信――いや、賢しき故の確信だろうか? 何故、こうも落ち着き払っていられるのか……)
ゼフィリアはふと、眼前の青年に旅立ちの日のオルテガを視る。雰囲気こそ違えど、他を圧倒するような、漲る覇気。決して揺るぐことの無い、鋼の心。自らの意志に燃える、強い眼差し。まさしく、勇者オルテガの再来ではないか。
「前へ」
大臣の言葉に、シーザは優雅に立ち上がると、そのまま目の前、玉座の数歩手前で再び跪いた。ゼフィリアは、中心に蒼い宝玉の入った環――サークレットを青年の頭にかけてやる。このサークレットを授けられた者は、アリアハンの歴史上、五指に満たない。それは勇者の証であり、世界の希望である証だからだ。
「ここにお主を勇者と認める!」
その言葉に、今や勇者となった青年は、
「有難く存じます」
表情を変えないまま、一言、謝辞を述べた。
「だがお主一人では、再びオルテガような不幸に見舞われるかもしれぬ。酒場にて旅の仲間を見つけ出すが良かろう」
「御意……」
勇者は直立すると、右手の拳を握り自分の鳩尾に当てて見せた。アリアハン式の敬礼だ。そのまま数瞬黙した後踵を返すと、扉へと向かって、入ってきたのと同じよう淡々と歩む。それを両脇に並ぶ兵士が敬礼で激励した。
その後姿をゼフィリアはただ見詰め、願う。
勇者の旅路に祝福のあらんことを。
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